奈倉を語る

■自然と文化のキーワード
「 ようばけ 小鹿野化石館 大徳院 神楽 妙見宮 女歌舞伎 奈倉館 一本杉 奈倉展と奈倉文庫 森玄黄斎 八人峠 泉湧く地質 赤平川の湾曲する中の平地 奈倉の架け橋」 
■奈倉の文化活動 平成20年(2008)現在では奈倉展36回1972~。耕地運動会30回1978~。奈倉文庫348号 29年(350号へ)。
 神楽は58年の歴史 女歌舞伎は26年の歴史を継続。  2017年より始まった大徳院「こどもの日」
奈 倉 年 表

ようばけ・化石館・奈倉層

町天然記念物  一体は昭和53年3月に県自然環境保全地区に指定されている。
 高さ100m、幅400mにも及ぶ崖で、1500万年前(新生代第三紀中新世)の地層が露出した貴重な場所。
 1300万年前に絶減したパレオパラドキシア束柱目ジュゴンにもゾウの祖先にも似ている、パレオ(昔の)・パラドキシア(矛盾した=パラドックス)の化石を産出する層(奈倉層)。レプリカは小鹿野化石館にあります。
「ようばけ」は下部が奈倉層、上部が鷺ノ巣層。奈倉層にはたくさんのカニや貝の化石。 奈倉層の秩父の海は、寒流と暖流が流れ込む浅い海。奈倉層の東は秩父市大野原、南は荒川村の荒川橋に分布。
 おがの化石館がようばけの前、奈倉の中央にある。地元の化石の中生代や古生代の化石も展示。他パレオパラドキシアの復元模型も展示されている。

パレオパラドキシアは新生代第三紀中新生,1500万年前の哺乳類。世界の奇獣とも言われている。
 1975年秩父農工高等学校の高校生堀口勉さんが大野原の荒川右岸で日本で最初の発見。
 自然史博物館の坂本治学芸員は、県立に移管する前の、当時は秩父鉄道が経営する秩父自然科学博物館に勤務していた。
 この頃、この化石の価値を理解する人が得られず坂本学芸員は個人で資金を調達して発掘に着手。
 昭和56年(1981)坂本道夫さんが小鹿野町般若のセメント採石場で全身骨格発見。
 坂本道夫さんは、2年後の1983年には、同じ場所で作業中に、新種「チチブサワラ」も発見。
 世界では5体程発見されている。名前のパレオは昔、パラドキシアは不思議なとか矛盾を意味する。カバに似ているようだがその先祖ではないらしい。

皇太子(浩宮殿下)がようばけを訪れている


⇒このときの武甲山についての作文は⇒こちらへ
学習院のお仲間と化石採集をする若き日の浩宮さま。写真提供は当時お話しなさったという髙橋文雄様
(浩宮様は2019年に令和天皇になられた。)

大徳院と一本杉

文化14年(1804) 大徳院が現在地に上棟される。

町文化財指定の木造阿弥陀如来坐像が安置されている。本像は定朝様の影響が見られるが、13世紀初め頃の作と思われる。すぐれた技法は、中央の仏師の作であることをうかがわせる。大徳院の開基、奈倉氏の持仏堂の本尊として造立したものと考えられる。(像高52.4㎝)
天保14年(1830) 玄黄斎が庚申碑を刻む。

一本杉は町指定天然記念物
奈倉の大徳院の門前にあり、目通り周囲4.5 m、樹高約20mを測り、樹齢は約300 年と推定される。大徳院に伝わる延享3年(1746)の古絵図にも杉の存在が記されている。

杉の前を通る街道は、奈倉から下吉田、伊古田へ通じるものでその要衝にある杉の木は通行の目印として親しまれてきたと思われる。
10数年前まではこの街道の下(馬坂)の赤平川には木の橋を住民が設置していたが現在は奈倉橋ができたことにより、この道は通行止めとなっています。木橋は対岸の小屋に保存されている。

門前の彫り物も森玄黄斎のもの。

不徹和尚
大徳院最後の住職
不徹和尚と宮沢賢治は同郷で同級生であったとのこと。
実に奇遇な奈倉との縁である。

大徳院の境内の白木蓮の巨木の処には不徹和尚が造ったと言われる防空壕が残っている。

奈倉氏と奈倉館と名倉堂

 今から500年か550年くらい前(鎌倉時代末から室町時代ぐらい)。吉田に居を構えた秩父氏から分家し奈倉という姓を名乗り始めた。
 奈倉館跡には約70mに渡って石塁跡がある。現在は八幡様をあらためて祠を設置し氏神としてまつられている。また妙見様の方角を向いて摩利支天もまつられている。(八幡は北斗七星(妙見)もしくは北極星の信仰。鉄の文化とも結びついているとのこと。)
 
 秩父氏からの出の畠山重忠公(1164年生まれ)は奈倉氏と親戚になる。
 奈倉氏は永禄13年(1570)武田信玄に攻められて落城、岩槻,越谷を経て江戸へ。名倉堂として全国接骨の名医となった。子孫は千住の名倉医院
山本学芸員の講演「名倉館と名倉堂」

妙見宮

妙見宮本殿は町指定有形文化財(建造物) 昭和61年2月26日指定です。 
 妙見宮の創立は永禄元年(1558)奈倉氏が秩父の妙見菩薩(秩父神社)を勧請したものと伝える。仁王像が安置され妙見宮を守護している。桁行182.0 ㎝、梁間158.0 ㎝高さ約580 ㎝を測る。屋根は柿葺きで正面に唐破風と千鳥破風が付く春日造の神社建築である。棟札から安永3年(1774)の建造と知られる。

歌舞伎上演の歴史と女歌舞伎

歌舞伎上演の歴史は寛政四年(1792)の記録が奈倉の妙見宮の芸座にあり、秩父で最も早い。
 秩父では文化・文政期(1804~30)には初代坂東彦五郎が一座芝居を組織。その後勇佐座・天王座・大和座と引き継がれる。
女歌舞伎 1982昭和57年~ (平成20年で26年になる)
 4代目坂東音十郎襲名の轟昌平師匠の指導により「奈倉女歌舞伎結成。
(最古歌舞伎上演と同じ年代では杉田玄白(安永3年(1778)の解体新書の図譜を描いた小田野直武は平賀源内から西洋画の手ほどきを受けていた。源内は不燃紙(石綿アスベスト)作製など大滝にて過ごした時期もあった。)

書は書き写し

森玄黄斎

 秩父の彫刻家 文化4年(1807)白久村(荒川村)の旧家山中家に生まれた。天保2年(1831)奈倉の豪商森伊佐衛門にその才を認められ婿いりとなった。天保10年(1839)に江戸で出版した『印籠譜』が世に知られるヒットとなる。
 26歳のころ,一寸五分の象矛に孔子の門弟三千人を彫刻し,将軍家へ献上。この彫刻は,将軍家からイギリスヘ移り,大英博物館に保管されているという。天保14年(1830)には玄黄斎が大徳院の庚申碑を刻む。宮街道沿いの森家の墓地に玄黄斎のお墓がある。墓碑にも玄黄斎の彫刻がある。

宮沢賢治が奈倉を訪れている

宮沢賢治(1896-1933)は20歳のとき、1916年大正5年9月2日~8日まで地質調査で秩父を訪れました。
その間、小鹿野の「ようばけ」に立ち寄ったことが親友・保阪嘉内に宛てた1枚のハガキから推測されます。
宮沢賢治「さはやかに 半月かゝる薄明の 秩父の峡の かへり道かな」1916年9月4日(本陣寿旅館へ宿泊と言われる)
保阪嘉内「この山は 小鹿野の町も見へずして 太古の層に 白百合の咲く」賢治が来た後に訪ね来て読む。
保阪嘉内次男で医師である保阪庸夫氏(山梨)は奈倉文庫と交流。短歌を寄せていただいている。
上武鉄道(秩父鉄道)が1914(大03)大宮(秩父)まで開通しているので、その2年後に賢治たちが来た事になる。

奈倉神楽 

 奈倉神楽は、大徳稲荷大明神の祭りに奉納され、「太々神楽」ともよばれています。神楽の創立は新しく、昭和二十五年。現在は三月の最終日曜日に神楽殿を組み立て、神楽を奉納。神楽面や衣裳はすべて地元の人々の手作り。

歌人田島梅子は奈倉出身

 明治39年に田島梅子は上京して活動したようです。堺利彦・与謝野晶子に通じ小説・短歌を詠んだそうです。「井上伝蔵とその時代」(埼玉新聞社)には人間伝蔵とその時代を語り、秩父事件の松明を受け継いだ二人の女性・井上直と田島梅子の生涯を描く画期的な秩父事件論とある。「さいたま女性の歩み」の[文芸活動の芽生え]に取り上げられている。

津島恵子 (ツシマ・ケイコ)の本名は森直子で奈倉にゆかり!?

津島恵子の義父が森岩雄(元・東宝副社長)で奈倉出身だそうです。(1899年2月27日生まれ 1979年5月14日没)
作曲もしていて曲名「酒が飲みたい」は歌手がバートン・クレーン昭和6年(1931)で外人が日本語のカタコトで喋るという曲。昔はよくあったそうです。津島恵子(Wikipedia)

←森岩雄執筆本「アメリカ映画製作者論」1965/8/30第1刷(田島昭泉蔵)


林家たい平さんも奈倉にご親戚 デビュー間もない平成7年に奈倉で落語を披露して頂きました。そのときの色紙です。たい平さんは絵も上手!(色紙は奈倉会館で展示されています)

絵がお上手なのは美術学校を出ていらっしゃるからですよ!