2006/4/2
みなさんこんにちは、教育委員会社会教育課の山本正実です。今日は奈倉の妙見様の春祭り、たいへんおめでとう御座います。また日頃は町のいろんな行政にはみなさんのお力をお借りいたしまして大変ありがとう御座います。私は教育委員会の社会教育課で文化財保護を担当しております。いつからやっているかと言うと、昭和57年だと思いますんで、当時から文化が仕事だったものですから、奈倉展には昭和58年ごろからずっとお邪魔して23回ほど見せていただいてるんですけども、今年は34回目だそうで、その内の大部分拝見したなあと思っております。この間の12日の日には本当にみなさんお疲れ様でした。あの奈倉館跡の整備をみなさんにやっていただけまして、本当にありがとう御座いました。当日私も出たかったんですけど、横浜で子供歌舞伎の公演がありまして、奈倉の子供も3人ほど参加してもらったんですけども、そっちの方へ出向いてまして、一緒に作業出来なかったんですけども、本当に見事に整備されまして、うれしく思っております。奈倉館跡って言ってるんですけど、どこがその館かですね全然分からない状態で、町の文化財もなにやってるんだっていうご意見もあったんですけども、地元のみなさんのご協力で「あっ確かにここは館跡だなあ」というような環境が整ってまいりまして、本当にうれしく思っております。
これをバネにもう一段町として、あそこで何をしようかと。まあ文化財の仕事ですと整備計画という仕事があるんです。一番近い例ですと寄居の鉢形城の整備計画は国の史跡、国の文化財ですのでキチンとした整備計画を作ります。何年計画でいつまでにこういう事をしましょう。いつまでにこういう建物を造ってみましょう。いつまでにこういう公開できる施設を造りましょうという計画を作るわけで、非常に広いお城だそうですから、全部を復元するわけにはいかないので建物の一部を復元したり、ガイダンスをするための施設として、鉢形城歴史館という博物館を造っているという、そのような形で史跡の整備を進めているわけです。なかなか小さな町でどこまで出来るか分からないんですけども、みなさんのあれだけの奈倉館跡に対する色々なお考え、ご希望、それから愛情とか色々あると思います。それに是非お応えしていきたいと一緒に勉強して、いい整備計画を作って、あと何年か後にはですね、たとえばその門の一部でも復元するとか、当時の物見櫓っていうのがあったかどうか分かりませんけども、そんな400年前、500年前にこういう建物があったんですよというようなのがですね一つでもできればいいなあと思ってます。それを夢に目標に仕事をさせていただきますので、是非みなさんからもいいアイディアをいただければと思っております。
いったい奈倉館跡ってのは何だということなんですね。奈倉という武士があそこに居をかまえた館跡で、城ですかと言われるんですが城とまでは言い切れない、館だと思います。お城って言いましても江戸時代ちょっと前の戦国時代の有名な安土城だとか大阪城だとか、ああいう壮大な天守閣をもったお城というのはそれ以前はそういう機能は必要ありませんでした。しかしここは平屋づくりでお殿様がいる館があったり、門があったり、馬小屋があったりですねそんな設備があったてのは全然分かりません。昭和63年度だと思うんですけども、館の跡がどの辺まであるかと推測して埼玉県で試掘調査をしました。地元のみなさんにもご協力いただきまして、発掘をお世話になった経験があります。そのときには何にも確認することができませんでした。トレンチといって幅1m50pぐらい深さ50pくらい掘ったと思うんですけども長さが4mくらい掘って地面の下の世界をちょっと開けてみたんですけども、はっきりこれが奈倉館跡の柱の跡だとか建物の跡ですよとは分かりませんでした。全体の面積それこそ0.0何%ぐらいしか掘ってませんので全体は分かりません。多分良好な状態でですね残っていると思います。もしあの土地がこの400年間だれもお使いになってなくて、まあ家があったというのは聞いてますけども、それほど大きく変わりませんのでいい状態であると、地面の下に奈倉館跡が埋まってるんじゃないかなと期待はしてます。開けて見るまでは分かりませんけども、鉢形城もお城として機能が終わるともう使いませんから、もうすぐに草がはえてきて木がはえてきて山になっちゃうと、そんなような状態だったと思うんです。それをキチンと発掘して何処にどういう、礎石と言う柱の下に置く石がでてきて、「ああこのくらいの規模の建物があったんだなあ」と言うことで復元をしてるわけです。ですから推測でですねものを言うのはいつでも出来るんですけど、ああいう形でやっぱりキチンとした形でどういうのがあったというのは、やるためにはやっぱり一回発掘調査でもやんないといけないかなと思っております。
まあそれは将来の夢としてですねいつの時代かってのも問題なんですけども、今奥の部屋で名倉堂と館跡の展示をやっていただいて、ずっと長い系図があったと思うんですけど、系図がですね平安時代、非常に古い時代ですね。今から800年も前の時代ぐらいから奈倉の歴史ってのは、話せると思うんです。800年前っていうと本当に気が遠くなるような時間なんですけども、それくらい前から秩父一族秩父氏が居を構えていたと、その場所は今の吉田小学校の敷地になります。地名では鶴ヶ窪の台地、そこにいた一族ですけども秩父氏は何をやっていたかと言いますと、秩父牧(まき)といういわゆる武士が使う馬の軍事訓練所。大きな牧を経営して、柵の中で馬の軍事訓練とか調教をやっていたという。その牧の管理者が秩父氏だったようですね。
系図をさかのぼっていきますと、桓武天皇という天皇の八代の孫にあたる秩父武基(たけもと)、この方が秩父牧の「別当」いわゆる長官というか所長として下吉田の取方に居を構えた、これが始まりだそうです。まもなく吉田の「上野原」の牧林にうつして、その子秩父十郎武綱(じゅうろうたけつな)という有名な方ですね、奥に秩父武基の墓とかですね位牌が初めて見させていただきましたけども、吉田にあります秩父武基の墓とか位牌がありますけども、その秩父武基という方が現在の吉田小学校の所上の台地ですか鶴ヶ窪の台地に居を構えて、そこを秩父氏館とした。それ以後ですね秩父氏は重綱(しげつな)、重弘(しげひろ)、重能(しげよし)とですねこの吉田の地に過ごして、秩父重能の代にわたってその館を大里郡の畠山に移して、そこから畠山という名前に変わって畠山一族という風になったそうです。この重能の子供が武蔵武士を代表する畠山重忠公という有名な武将になってくるわけですね。後から話しますけど奈倉一族もその秩父氏一族から別れた名流の武士で親戚に当たりますけども、吉田町の彦久保家とかその流れに属する者ですね。
畠山重忠公の話が出ましたんで、ちょっと付録で話しときたいんですけど、このあいだ吉田の万松寺という所で初代坂東彦五郎さんの顕彰の追善公演をやったんです。畠山重忠公の出る芝居がございまして、ちょっと私もしゃべったんですけども、それは兄弟の助命に関わったということで、いい役なんですね。畠山重忠公というのは、やっぱり武蔵武士を代表する武将として、今の大里郡の川本町でも畠山重忠公の顕彰会とか銅像とかですねお墓があったりして、一生懸命に顕彰されています。非常に全国的に名前の通った武将だと思ってます。よく聞かれるんですけども畠山重忠公っていうのは、平安時代末期に活躍した武将で、平安時代末期から鎌倉時代にかけていわゆる源平合戦に出たんですね。あの人は、最初は源氏にですね反対したんですけども後に源頼朝に服属しまして、平氏の追討に参加してます。平家物語にも畠山重忠公の名前が出てきます。で源義経と一緒に平氏の追討に関わったと。そこでみなさん、もうご存じだと思うんですけども義経公と畠山重忠公とはどっちが年が上か。どちらでしょう。生まれた年を見てみますと源の義経公が1159年生まれで、畠山重忠公が1164年生まれですから五つ重忠公さんの方が下なんですね若いんですね。ですから去年のNHKのドラマなんかでもタッキーが義経をやってましたけども、畠山重忠公が出るかなあと思ったんですけども、出なかったんで、でも名前だけ呼ばれたんですねそのシーンがあったんですけども、19歳か18歳くらいの年で源平合戦に参戦してるんですね。まあそのくらいの非常に若々しい武将として源平合戦に参加した有名な武将ということで紹介させていただきます。だから奈倉一族は畠山一族とも関わりになる非常に由緒ある名流と言うことが出来ると思います。
ここの奈倉に居を構えたのは、さきほど言いました吉田に居を構えた秩父氏から分家という形で分かれて、この奈倉の地に移られたと思います。室町時代、鎌倉時代末から室町時代ぐらいになってからかなあと思います。今から500年か550年くらい前のことですね。この地に居を構えて、奈倉という姓を名乗り始めたというわけですね。私も役場で説明を作ったんですけども奈倉行家、奈倉重家、奈倉重則の3代があの場所に居を構えて、この地の経営にあたっていたと、まあ当時の武士っていうのは、この周辺のいわゆる荘園の管理、畑とか田んぼからとれる作物の管理、今で言う年貢にあたりますか江戸時代で言う。その管理とこの地域の安定をもし敵が攻めてきた場合の防衛なりこの地域の方々の安全を守るというのが使命だったと思います。その3代がこの奈倉にいたと。どうゆう館かと現地で説明しますけども、だいたい100m四方という範囲が当時の鎌倉時代、室町時代の武士の館の跡の標準的なサイズだそうです。今は70mくらい石塁っていうのが残ってまして、あれを一つの辺として100mくらいの大きな正方形の範囲が館の跡ではないかと言われています。もちろんそこだけがですね、お殿様だけがいたわけではありません。奥方様もですね子孫もそれから子供達もそれにつかえる方々も、馬を管理する方それから色んな食料調達からですね色んな方がいたんで、その館の周辺にいわゆる城下町じゃないですけども色んな職業に関わる方々が住んでいたんじゃないかと思っております。それで百数十年この地で経営されて、途中で奈倉重家という方が大宮にあった妙見宮妙見信仰が非常に盛んだったようで、奈倉に妙見様を勧請してお祀りした。それから大徳院を開山しまして、それを奈倉一族の菩提寺としたということが伝わっています。大徳院に町の文化財になっております木造阿弥陀如来像、これは大徳院のご本尊じゃないんですけど、左側に安置されてる阿弥陀様があります。金箔で貼ってあります。非常に古い形からみますと平安時代末から鎌倉時代初期ですから800年ぐらい前の仏様で非常に優秀な像なんですけども、その像もありまして、多分奈倉氏の持仏堂当時の阿弥陀様を信仰する阿弥陀信仰というんですが、その阿弥陀様を拝んで南無阿弥陀仏を唱えていれば極楽浄土に往生できるという、非常に信仰が盛んでしたからその持仏堂のご本尊が今に伝わっているんじゃないか。非常に貴重な阿弥陀如来のお姿だと思っております。その他になにか残っているかというと、もちろん奈倉館跡です。これはあの石塁と地面そのものが残ってますんで、将来何か出てくるか分かりませんけどもお楽しみでということですね。
そのあと奈倉3代がここに居を構えたあとどうなったかといいますと、戦国時代の末に秩父の地域は甲斐の国山梨から長野県信州にかけて武田信玄が一大勢力をはってましたんで、その武田一族がこの地も領有しようとして入ってくるわけですね。もともとここは寄居に鉢形城があった関係で小田原に本家を構えていた北条氏の本拠地といいますか領有した土地ですから、その土地をめぐって壮大な合戦が繰り広げられるわけですね。その一つの拠点として設けられたのが寄居の鉢形城です。鉢形城が天正18年に武田信玄が入ってきて色んな合戦が行われて奈倉氏の一族も武田によって形勢不利となったと言う言い伝えと、天正18年まであって鉢形城の落城と一緒に終わったのか、それはまだ分からないんで申し訳ないんですけども、とにかく戦国時代末期に戦国時代の城としての機能は終了したわけです。そのあと奈倉一族は東京ですね江戸へ移ります。一時的に今の越谷市の大泊あたりに居を移すんですけども、その後奈倉一族は江戸の千住に居を構えるわけですね。
江戸時代のなかごろですね明和7年っていいますと1770年。230年前、その時期に名倉直賢(なおかた)と言う方が千住で骨接ぎ業を開業して、それ以来代々ですね、十何代くらい骨接ぎの家として有名な家になってます。名倉弓雄(ゆみお)さんという一族の方が「江戸の骨接ぎ」という読みやすい本を書いていらっしゃったり、現在日本に二百何十カ所その奈倉を名乗る骨接ぎの接骨医の方がいるそうなんですけども、もう奈倉と言えば骨接ぎというぐらい有名になってるそうです。戦後、これは名倉重雄伝という本なんですけども、名古屋大学の医学部の卒業生の方が編集した本で名倉重雄さんという著名な外科医の業績をまとめた本で、この中にも名倉一族の系譜だとか歴史とか詳しく紹介されてます。これだけ代々ですね接骨医なり外科医なり柔術家っていうんですか排出したお宅として非常に有名です。現在も千住で今は格好いい名前で名倉メモリアルクリニックとかいうんですけどもね名倉医院が伝わっています。江戸時代には本当に接骨の有名な家で江戸近辺と言わず関東周辺から脱臼しちゃったり、骨を折っちゃったり色んな人が戸板に担がれて、早朝になるとその戸板が行列になるという、そのくらい盛った接骨医だったそうです。そのお宅が明治、大正、昭和と続いてまして、現在非常に大きな病院を経営されてます。奈倉の方も何人かその千住の名倉医院にお邪魔されてます。私も一昨年お邪魔しまして、千住という所は東京空襲に合わなかったもんですから、町自体が非常に歴史の薫り高い町でして、その一角に名倉医院が本当にあの江戸時代そのままのいい形で診察室とか、待合室なんか残ってました。また機会があったらこの中に写真が紹介されてますので、また後でご覧いただければと思ってます。
そんな奈倉一族名倉氏と奈倉館跡それから骨接ぎ名倉堂と色んな形で関連しております。まあ一番それを支えていただくのはですね地元の奈倉のみなさんで、是非奈倉のみなさんが名倉っていう一族のことと名倉堂という骨接ぎの事それから奈倉っていう地名、色んな事に関心をもっていただいてこれを是非勉強していただければいいなあと、それぞれの材料ってのは、この奥の部屋にいっぱいありますので、またよく読んでいただければと。また次の世代の子供達にも奈倉の事を教えて欲しいなと、私なんかが喋るよりみなさんがご自分のお子さんやお孫さんに話していただければ非常にいい地域の勉強ができると思ってます。それを期待してですねちょっと短いんですけどもこの場所でのお話を終わらせていただきます。どうもありがとうございます。
(講師紹介 学習院文学部史学科卒業、小鹿野町社会教育課主幹、歴史民俗学芸員)