台風19号の記録 2019 秩父

①未だかつてない大きな台風との前触れ やってきた台風 ②娘家族の被災・全壊 ③ボランティアさん ④さぁ壊すのそれともリホーム  ⑤解体へ

③ボランティアさん募集 家財寄付 片付け

10月27(日)
今日は長男が戻ってきて現場に行って、泥に埋まった脚立を掘り出しておいてくれた。畳などカビが出てきていたとのこと。心配だ。
お昼はそば屋で暮坪の被災したOさん夫婦にであったが、私はつい「あぁ水の中の」と呼んでしまった。私の中ではあの大水の中に一軒建っていた家の印象が強かったからだ。片付けしてはいるが住むつもりはもう全くないとのことだった。
午後2時 エフエムちちぶに出演してきた。トークは楽しかった。娘の被災も伝え、ボランティア募集のことも伝えることができた。感謝。
夜、IKさんより電話。重機も使っていいとのことで、明日現場を見に来ることになった。
私は10時過ぎまで作品作りに集中できた。
facebookでボランティアの募集を載せた
ボランティア募集です。
被災家屋と敷地内の片づけ(娘家族の住んでいた家です)■11月6日、7日の午後(1:00-4:00)
◆場所:秩父市下吉田2945-8。聖音の湯のはす向かいの道を入ってから左側の農道に入ってさらに左の小さな集落。あとで地図を貼り付けます。◆駐車:車の方は聖音の湯のはす向かいを入って川沿いのアスファルト道路へ、片側駐車し、そこから徒歩(200m)でお願いできれば助かります。◆保険:秩父市社会福祉協議会へ電話(0494-22-1514)して、ボランティア登録してくだされば自己負担なく加入できます。今回だけだと350円のボランティア保険の自己負担で当日現場で加入になります。前日までに社協へ電話を入れて下さい。◆持ち物:手袋・軍手、マスク、飲み物など個人で必要なものはお願いします。◆水道は使えます。(手を洗ったり、飲み水として)◆トイレはありません。取り方の運動場の公衆トイレ(取方橋のたもと)までゆけばあります。休憩時間とって一回トイレには行きます。●現場はほとんどが砂ですが、泥も混ざった土砂の撤去。濡れて使えない家具や畳などの撤去。使えるもの、記念の物などの捜索。2日目になると思いますが床をはいで床下の泥の撤去。以上は変更・更新などあるかもしれません。問い合わせはメッセージなどでお願いします。
グレーでの作品、武蔵屋でのグループ展への作品、版画を残して額装ができた。ほっとした。
29(火)
婿さんの同窓生がケーキを持って、お見舞いと、がれき撤去に来て下さった。ボランティア第1号です。
9:30 私も現場へ行く。キッチンのぶら下がった窓を外す。電気はメーターで止まっている事を確認。和室の片付けを始めたが泥がいくらかくさい。まだまだぬれていて重いし粘る。衣装ケースにも泥水がたまっていて腐っているし重い。婿さんと友人で居間の泥が半分片付いた。12:15私は帰宅。二人はもう少しがんばっていた。

東電に電気の接続を依頼した。11月5日に漏電の確認後通電になる。
30(水)
夜、2時ごろ目が覚めるが我慢して、朝まで床にはいっていて眠れた。今日は社会福祉協議会の職員が下見に来て下さる日だ。

現場9:30 娘と片付け。使えそうなものを少し車に積んだ。
10:00 IKさんがユンボを持ってきてくださった。早速、玄関前の3m近く積もった砂をかきだしはじめた。
10:20社会福祉協議会のお二人が下見に来てくださる。土砂の移動と廃棄物の移動について、ボランティア保険について相談。
お昼の帰り際に区長さんがボランティアの案内のチラシを持ってきてくだった。そこでショッキングなお話、「50年前にもこの程度の増水があったんだいね」と。そんな浸水聞いてないよ!もしそのことが伝承されていればここに家は誰も造らなかったはず。なぜ、宅地化してしまったのか。

左は洗えば使えそうなスチールだなを持ってきた。右は水没して、いかれたデジタルカメラやビデオ。SDカードだけはきれいにしたら画像が出てきた。アップルのノートパソコン1台とタブレットも水没。捨てるしかないだろう。ものほしを持ってきたが洗濯ばさみは中に泥がこびりつき洗うのに大変な時間がかかる。アイロンも洗えば使えるかと洗ってみると、中からいくらでも泥水が出てくる。とにかく粒子の小さな泥がどこにでも入っていてたまっている。使えるものはあるのか→■
10月31日(木)
午前中は写真のフィルムやスケッチブックの回収途中で上の家のAさんが社会福祉協議会の方と訪ねてきた。崩れたところなどの対策に土嚢(砂袋)をつくりたいので、たまった砂を使ってもよいかの問い合わせでした。こちらは友人のIKさんが玄関前を片付けることで、出た砂は事業に利用するという予定。手前の家の横にたまった砂をとりあえず使ってもらうことにした。

午後は回収したものを洗ったり乾かしたり。娘の結婚式の写真集のCDが洗ったら、ちゃんと見られた。一方、写真のフィルムは洗うと画像が流れることに気がつき、乾かすことにした。父のスケッチブックも泥が入り込んでいたが、何枚かは洗って、何とか雰囲気が残るものがあった。ものを洗うのには時間と手間がかかるのには閉口する。
武蔵屋への版画作品「Composition of fore colors of SOBA」の額装できた。
11月1日(金)
冷蔵庫やテレビなどのありがたい寄付受け取りの予定が3日。入居予定の部屋に搬入すればよいと考えていたが・・・この搬入先、すなわち市営住宅の鍵を預かりに娘が行くと、「まだ(清掃・修理)業者が入っていないので渡せません」とのこと。また、その搬入先を探さなくてはいけないことに。

父の泥だらけのスケッチブックを一冊、洗って中身を干した。父親には申し訳ない気持ちだ。特に自画像が出てきたときは、その厳しい顔つきに「ごめんなさい」の言葉が出た。

昼は裕子と秩父市内で食事し、併設の画廊では絶滅危惧種植物を描く画家Yさんの個展を拝見できた。その後グレーに私の作品搬入。この個展のためにどれだけ気持ちの揺れがあったことか・・・。小さな作品が多いが、まとまった作品展ができてほっとした。作品ができたのも家族のおかげと感謝した。
ニュース新聞では今回の19号被災を激甚指定にするとのこと。国の支援金も出ることになる。娘たちはほっとしていた。
11月2日(土)
朝一番で近所のTTさんに鉄骨屋根の小屋の一部を使わせてもらえないかを伺いに行った。快く貸して下さることになった。荷物は二度動かすことになるが仕方ない。

午後、トラックをもってIKさんが来て下さった。私の車に乗って帰宅していただいた。トラックを掃除し、ロープや段ボール、毛布などを用意し明日の搬出搬入に備えた。
11月3日(日)
朝6時に起き、7時には私がトラック、娘夫婦がマイカーで浦和に向かった。順調に高坂SAで休憩し、予定通りの9時に現地に到着。娘の車は与野駅で次女と長男を拾って現地に到着。古き知人のKHさん。私の子供たちを紹介。その母親の家(実家)の家具などをいただけると言うことでトラックに積み出す。お母様のハンドペイントの描かれた貴重な家具も娘夫婦も気に入っていただいた。10時半には積み込みができ、お別れ。40年前の縁がネットで最近につながり、被災を知った奥さんが助けてくれた。時代とともに不思議な縁に感謝した。

家には明日の七五三の長女家族も来て、まるで正月のように子供たち全員が集まって賑やかになった。寝袋で寝る長男、塾の板の間に布団を敷いて寝る次女。文句も言わず過ごしてくれた。

トラックに積み込み完了後の記念写真
11月4日(月祝日)
午前中は孫娘の七五三。
孫の成長を見るのはうれしいことだ。

午後3時には武蔵屋に作品搬入。よい具合に飾れた。感謝。

グレーからはSIさんが作品を買って下さったと連絡が入る。

夜は平常の授業をした。授業も楽しい。

夜のニュースでは被災地へのボランティア不足。合わせて重たくて粘る泥をスコップで掻き出す映像。しんどい被災地が未だに沢山あることに驚き悲しむ。

10時過ぎ、グレーでの作品を売約して下さった友人SIさんからお見舞いの電話。お見舞いの気持ちも含めてだけど、逆境での作品「きぼうのとり」に感動してくれたようでした。希望を持って生きてゆきましょうと励まされる。感謝
11月5日(火)
午前10時 東電が現場に来てくれて、2階の回線は漏電もなく使えるとのことで、電気開通。これで明日のボランティアさんの受け入れ時に、電気も使える。ただし、ボランティアは床剥がしはしないとのこと。解体作業には加わらないようだ。あくまでも片付け・・・。

夕方、IEさんから電話。エフエムちちぶで必要ならばボランティア募集をもう一度呼びかけましょうかと。エフエムちちぶさんでは社会福祉協議会に電話して下さって、『今回のボランティアは足りてるが今後必要なときもあるので連絡を』との事らしい。夜、facebookでボランティアに行きますとの人数を見ると6日は10人。7日は7人。両日ともに社会福祉協議会では何人来るかは解らない。6日は午前から婿さんの父親が来て下さる。サッシ枠を外したり、2階の掃除もしたい。7日は午前中に床剥がしが必要か。

婿さんが市役所へ行って国の支援金の申請に行ったら、まだ申請書がそろっていませんとのこと。支援金が決定したと報道にあったのは11月1日で、この時点で申請できないではちょっと遅い。ガックリ。帰宅後に社会福祉協議会も1万円の見舞金が出ると連絡が来たそうだが、現金支給なので取りに来て下さいとのこと。そのたびに30分先の市役所へ往復するのはかなり負担だ。
11月6日(水)
朝は3時30分に目が覚め、寝床に入っても眠られず4時半には起床。毎回、あのとき荷物を持ち出しておけば等と考えてしまう。『川がおそったけれど川を嫌いにならないで・・・』こんなフレーズの詩が頭に浮かぶ。

娘家族は3.11の東北大震災の時の福島原発爆発事故での放射能が気がかりだった。報道でも秩父は埼玉で一番放射能が濃いと一面に出た。2歳の長男と何より次男が生まれる時で産科に入院中。誕生は4月11日で放射能で食べ物も大きく気にしていた。その原発が日本では推進や再稼働ばかりで脱原発にならないことがさらなる未来への不安へ。
娘家族は婿さんの日本食料理人としての腕を以てニュージーランドに移住すべく渡航したのは2015年。子供たちも小学校では英語もわかるようになり、すっかり馴染んだ。婿さんも主任級になってがんばっていた。しかし、ニュージーランドでの生活も永住権を得られるはずが移民法が2018年に改定され、あえなく帰国したのが2018年10月。下吉田での再スタートで子供たちも小学校になれ、家具などもそろえだし、余裕が出てきた矢先の被災だった。

沢山の力強いボランティアさんが2日間にわたり来て下さった!

午前中に婿さんの両親がボランティアに来て下さって廃棄物の搬出。
午後は1時に友人の勇士と社会福祉協議会の登録ボランティア(約10名)が参上。社協ボランティアではここの現場以外にも3か所に散らばり活動開始。うちの現場ではさっそく床上の泥、玄関の泥、特にひどい洗面所とトイレと浴室の泥、落ちた壁の石膏ボード、割れたガラス等の搬出。そして木工家のDさんに丸鋸で床を切ってもらって剥がして、床下の泥を出し始める事ができた。甚大な量の泥だ。それにしても技ありの友人たちの人海戦術は大きい。心強い。私のほうで確認できた人は20人。木工家2、画家2、ギャラリー経営2、音楽家2、福島・東北へのボランティアメンバー6、自然体験指導員2、人形劇2、小鹿野町議員2、他です。
赤平川で長靴を洗うボランティアの皆さん
赤平川で長靴やスコップを洗うボランティアの皆さん。ありがとうございました。4時解散。

夕方5時には生徒も着て通常の塾。いつもよりあわただしい流れの中、12時に就寝。
11月7日(木)
朝は4時15分に起床してしまった。薪ストーブをつけて、この日記を書いている。2日ほど霜が降る寒い朝だ。

現場には今朝も9時に行き、先行で片づけを始めた。すぐ、婿さんの両親も来てくれて作業。10時過ぎにダニーさん一行も来てくれて床の切断を始めてくれた。お昼はそれぞれが持参した昼食。壊れた家屋がなければ、まるでピクニックだ。娘も市役所に行き、支援金の申請を済ませて来た。

1時にはたくさんの友人ボランティアが来て作業が始まった。ちょっと遅れて社会福祉協議会のボランティア一行も作業開始。そのボランティアの中には近隣ではあるが家族3人で参加してくださった奇特な方もいて感動。感謝だ。床剥ぎと泥出しのほとんどができた。マンパワーのすごさ。ワンチームの威力だ。

屋内の家具調度、寝具、電気機器、エアコン室外機などの搬出された山。屋内の泥はテラスの手すりを切り落とし川へ搬出。かなりの大量の泥。

床下には30センチ以上の泥が積もっていて、排出には大変な労力だ。人海戦術で基礎がやっと出てきた。

外回りも基礎を出せるまでになった。玄関先の雨水などの配水のための傾斜もできた。屋内はすべて床がはがせ泥の排出がほぼできた。

作業終了後、ボランティアさんたちは自然に川へ行き長靴や道具を洗っていました。何もなければありがたい川です。

4時作業終了。今日は現場で記念写真。昨日と二日間ボランティアさんに助けていただいて、目標の家の中と敷地からの泥出しができました。まさにワンチーム。 希望が湧きました。娘夫婦もホッと笑顔。新生活はまだまだですが熱い人の心に触れて生きてゆくエネルギーが湧いたはずです。感謝感謝。 皆さま有難う御座いました。早めに帰られた5名の方、昨日の25名、たくさんのボランティアに来てくださった方に感謝です。
→ さぁ壊すのそれともリホーム