沖縄避寒移住の記 

1988.12〜1989.3 乳飲み子を抱えた家族のホットな移住旅日記

田島昭泉

 「寒い冬は沖縄へ行きたいわ」と、錦に染まりゆく秩父の山々を眺めながら、うちの奥様はぽつりと言った。十月に四人目の子を出産した裕子は日々冷え込む夜と子育てに疲れたとこがあったのだろう。

 沖縄は学生の頃3カ月ほど離島めぐりをしていたので、様子は知れていた。ひとり、テントと寝袋をかついで、自炊しながらの、とっても贅沢な貧乏旅行だった。青い海に囲まれた風景を思い出すとなにか血が騒ぐ。往復の交通費が気にかかるくらいで滞在の仕方をキャンプと考えればこちらでの生活費とはあまり変わらないだろう。「貯金は?」と聞くと、「出産祝いを含めて30万あるは」と裕子。あっさり3カ月は保つとふんだ。

 軽のワゴンの後ろには荷物が入るように棚をつくり、その下には赤ちゃんの籠が入る。屋根の上にも荷台をつけてテントや自炊道具など荷物満載、生後2ヶ月の乳飲み子含む六人の生活用品一式いれて出発したのは夜祭りも終えた十二月十四日。

 12月16日 二泊三日の船旅でついた沖縄は、曇り空だが暖かい。那覇ではユースホステルに一泊し、翌日はキャンプのできそうな北部へと向かった。途中読谷村の陶芸の里など興味深く見学。米軍基地や本土大手ホテルの林立する海を見ながら北上し名護の先、辺土名につく。砂浜は風が強く乳飲み子抱えてのキャンプには向かない。民宿に転がり込んだ。そこのおばさんの話では、沖縄の冬は雨が多くて風も強いそうだ。沖縄の冬は平均十五度。寒くても十三度を下る日はないとは知ってはいたが、雨が多く風が強いことは計算外だった。

 秩父で住んでる家は空き家だった民家。空き家捜しはお手の物。では、沖縄での空き家捜しをしよう。と、その晩の結論がでた。地図を見ると北の端まで点々と集落がある。一軒ぐらいは貸してくれる空き家があるだろう。

 次の日、家族を民宿に残し、ひとり身軽に車を走らせた。次から次からでてくる不思議な名前の村々で、人を見かけては尋ね、空き屋らしき家を見つけては、持ち主を訪ねた。一二軒、何とかなりそうなのを見つけ、さらに車を北まで走らせた。

 北部の村には「共同店」と名のつく店(共同売店)が必ずある。そこには村の事をよく知っているおばさんが必ず居る事も解った。そして北の端、まさにその名も奥という名の集落に着いたとき、一際大きな共同売店が目に入った。迷わず訪ねてみると親切なおばさんがあれこれと案内してくれた。傷んでいるものの、見つけた空き家の中ではベスト。家賃は一ヶ月、五千円で交渉成立。次の日あらためて家族引き連れて入居と相成ったのである。崎原さんという奥食堂を経営しているおばさんの持ち家だった。
   


奥の村を神社山から見る
遠く海の向こうに与論島が見える
(右手前の赤瓦の家は2年目に借りた家)



私たちが始めに借りた空き家です。



なかよし我が家の3姉妹

  奥(国頭村奥=くにがみそんおく)はヤンバルと呼ばれる北の端にあり、百軒ほどの家が港を前にミカン山を背にしたかわいい集落だ。赤瓦の平屋とサンゴの石垣の小道、福木や椰子、パパイヤなどが沖縄らしい風景だ。人は皆のんびりとしていて話好き。ヤンバルは山原と書き中央からの差別用語であったが、今ではヤンバルクイナやヤンバルテナガコガネなど新種発見で誇れる名前となった。地元の人もその言葉を平気で使えるようになったとのことだ。

 住みはじめると「どこからね?」と、訪ねる人が多い。そして次には野菜やミカンをいっぱい持って来てくれる。沖縄の冬は野菜が豊富なのだ。

 散歩してると「コーヒーでも飲んでいきましぇんか?」と声をかけてくれる粋なご婦人(仲間さん)が居て、上がり込んでみた。ご主人は近衛兵として沖縄代表の数人の中の一人として選ばれるほど優秀な軍人だったそうだ。沖縄戦で負傷した足を引きずり居間に出てこられた。いつもは家の中でテレビを見ている生活だ。

 「沖縄戦では何人の人が死んだか知っておりますか?」「日本の政府は沖縄をどう考えていますかね?」と、答えに窮する質問がでる。私は自分の言葉で誠意を尽くして話してみた。ただの観光客としてここに滞在してほしくなかったとのことらしい。「田島しゃん、毎日コーヒー飲みに来なさいね」と、ニコッと言ってくれた。

 村の生活が数日たった頃「子供たち幼稚園に行かせなさい!」と、畑のおじいさんが言った。同じ事を、売店のおばさんも言ったので、住所変更もしてない旨を言うと、「へいき、へいき。あしたから行かせなさい」費用が・・・と心配すると「ひと月お菓子代五百円でだいじょうぶさぁ!」ときた。奥の区長さんにうかがったら「行かせなさい!」の、一言だった。保育園も奥の共同でできている保育園だったので地区長さんの一存で許可。12月20日には泉と光はわずか五人の園児の仲間入り。五人の内、二人は我が子と同じにわか園児だった。 うちの子は気が弱くて最初は行ったり来たり勝手に返ってきたりしましたが、その内時間までいられるようになりました。クリスマスパーティーではプレゼントやケーキまでごちそうに成り大感激の日々となりました。

  ♪ 奥幼稚園 ♪


うちの子と帰郷組の子を合わせても7人
恵子先生!よろしく

仲良し7人組→

 コーヒーのおばさん(中真さん)に聞いてみた。沖縄はユイマール(結い)で知られる共同の精神が強い。陸の孤島だった奥はみんなで協力してキビも作る。家も皆で協力してつくる。だから、特に大きな家も小さな家もない。幼稚園の先生の給料も皆、奥の耕地の人たちの出資金でまかなわれている。だから、村の人が行きなさいと言えば即入園だ。そして共同店は80年の歴史がある。この奥の共同店が発祥の店だったのです。かつて陸の孤島だった奥の人が船で奥の材木を売りに船を那覇へ持って行き、帰りには食品や日用品を仕入れてきて共同で売った。利益は村に還元されるので高く売っても利益があるので皆が買う。計算と愛想の良い人が選ばれて売り子となるシステムだ。夏の海水浴のシーズンはお客がいっぱい来て、奥の人みんなが儲かる。サトウキビの仕事や日本で一番早い新茶の「奥みどり」も共同だ。なんと、学生への学資金や療養費の貸し付けもしているそうだ。コープの先取りだ。

12月29日 正月の前、泉と光を連れて散歩していると川辺で豚を引き連れている3人の村人の姿がありました。なんと目の前で屠殺(とさつ)が始まりました。てきぱきと解体し、血や豚足、耳など全ての部位を綺麗に洗いながら分別してバケツで運ばれて行きました。沖縄では数件で豚を所有し解体し正月料理に使うのです。正月明け、この豚さんの料理を頂きました。実に美味しかったのです。子供達にはショックかと思いましたが、家でもチャボを解体して食べていたので理解できたようでした。

昼は20度をすこし超えるぐらいですが夜は17度を下りません。正月には桜もちらほら咲いてきました。
ウクムニーとは奥の方言のことです。この辺では花のことをパナ、火はピー、穂はプー。「屁をひって、知らん顔をしているな」は「ピーピチ、シャンプイ、ソーンドゥ」となる。解るようで解らなが、笑みの浮かぶ発音だ。

1月15日 魚釣りも挑戦した。珍しい魚が釣れました。太刀魚(タチウオ)です。夕ご飯のおかずになりました。太刀魚が釣れました。今日のおかずです。ここではミカン類も豊富です。シークワーサー、タンカン、クガニー、ぽんかん、レモン、どれもノーワックスで安心で美味しい。花が咲くとそれはそれは甘い素敵な香りがします。
野菜は冬が盛りでレタス、キャベツ、芋、ネギ、にんじん、中国野菜も一杯で有り難い事にタンカンも含めて村人から頂けました。感謝の連続です。
真冬に蝶も一杯飛んでいます。イシガケチョウをはじめツマベニチョウ等30種を確認できました。
村に一軒お豆腐屋さんがあります。もちろん共同売店で普通のお豆腐も買えるのですが、なんと言っても美味しいのが奥手作りのお豆腐。2日に一回しか作りません。前の日に海に行って綺麗な海水をくんできて、次の日は朝3時頃から作る正真正銘の天然にがりのお豆腐です。大豆をゆでるのも大きな鉄鍋に薪です。いい香りがします。ゆしどうふは型に入れずに固めたものでそのままで実に美味しい。味噌汁に投げ入れても最高に美味しい。型に入れた豆腐は堅いのですがパンにはさむとまるでチーズのように美味しかった。
家主の崎原さんが時々作ってくれるサーターアンダーギーも格別美味しかった。お正月には正月料理を振る舞ってくれた。

沖縄と言えばハブも有名だ。道には時々惹かれたハブを見ます。4月から10月がシーズンだそうです。足を引きずっているか居ましたがハブに噛まれた方だった。夜の散歩は注意が必要だった。

1月31日 あまりの暖かさに海水浴。子供達も大喜びだった。

2月6日、奥の村が一望でき、向こうに与論島の見える神社山でスケッチをしていると、老夫婦が登ってきた。13年ぶりに、この地へ来られたとのこと。お話を伺ってみると、私たちがお借りしている家に2年半住んでいたとのこと。ていねんご、それまでの世界を捨て、お二人で全国各地に移り住み、書に精進されたとのことです。彼にさそわれ、私もさそい歩き語らい、奥深き氏の哲学を聴く事ができた。ご一緒して辺戸岬まで行った時は彼の方が早いくらいの軽快な歩きでした。80歳とは思えぬ若さで、2週間の滞在中は毎日歩き回り、さらに見聞を広めんと自然や人と交流し、心の自由と身体の健康を持ち続けるご様子でした。その御老人こと川崎白雲(旧名梅村ばいそん)さんです。白雲さんはかつてイーデスハンソンさんの案内の元、アメリカを揮毫(きごう)しながら横断し日本文化である書を多くのアメリカ人に知らしめ、さらには書の高い芸術性を極めて来られた方です。白雲さんの作品はかつて住んでいたときに奥の多くの村人に謹呈されて今も毎戸に飾られれているのです。彼と出会い共に山原の道を歩き、沢山の貴重なお話をうかがえた。

3月1日 たった一日の奥小学校の美術の先生をした。奥の浜に来るウミガメを守るための絵看板をつくる授業をした。その後、浜に看板は立てられて保護を訴えている。

3月10日から12日の3日間、奥の集会所で「田島昭泉の博物展を開催した。新聞にも紹介されて大変な賑わいだった。スケッチ、色紙絵、貝を使ったオリジナル民芸お土産わらわんかい、昆虫の標本、浜の流木やサンゴを使った照明やモビール、オブジェなど、多くのものを展示して好評だった。貯金も底をついていたが、おかげで帰りの船賃分以上の稼ぎができて救われた。

 留守に帰ると玄関に花が置いてあった。野菜はありがたく良くいただいていたが、花は心にしみた。「いつまでも居なさい」と言ってくれた何人もの人のありがたい心だろう。知人一人いない沖縄でたくさんの知り合いができ、温かい心に触れた三カ月。3月16日のお別れにはたくさんの方々が見送ってくれました。幸せをいっぱい背負った私たちは、ただただ沖縄に感謝する思いだった。


お見送りには御世話になった方や幼稚園の皆さんが来てくれました。
長男星仙(0歳)も節子さんに抱かれている。

●1990.1〜4:避寒移住その2へ  ●この沖縄奥に関して書かれている「自然塾通信」紹介

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参考資料 AIU海外移住情報によると人口増加率が全国1位だそうです。(2005)

●転入者は26400人。転出者は23500人、年間2900人の人口増加。
2001年からはじまった沖縄移住プームの勢いは衰える様子もなく、小さな島では移住者の数が住民数を上回る逆転現象も起きています。
<転入・転出者>
2005年度の沖縄への転入者は約26400人(総務省数値)。転出者は23500人。
人口増加率
2004年度(2003.10〜2004.10)の沖縄県の年間人口増加率は東京を抜き、はじめて全国第1位(0.76%)。2005年の国勢調査数値では、前回2000年より3.2%(5年累計)の増加となり東京(4.2%)・神奈川(3.5%)に次いで第3位。

芝浦工大の後援会冊子に寄稿

追記2015年12月 NHKで奥の共同売店のことが特集されていた。

奥は陸の孤島だった
住民はここで伐採された木材を
船(おく丸)で那覇まで運びお金に換えた。
右上の方が宮城節子さん
サトウキビ狩りなど
共同の精神で皆よく働いた
最初の共同店(共同売店)
初期区長の糸満盛邦さんが
共同の精神で共同店を設立。
明治39年10月5日
現在の共同店
平成18年で創立100周年だった。

戦後は村の家は全て焼かれていて復興も大変だったが、共同で家を建てたとお話ししていた。
私たちが滞在の時にもお世話になった。お孫さんと家の子供達でよく遊んでもらった。
お元気そうで何よりです。今では長老。
私たちが滞在したときの区長さんも出演しておられた。