なぐらの語源

奈倉 納倉 納蔵・・・?

奈倉というこの土地の語源を髙田哲郎著「秩父の地名の謎101を解く」より抜粋させて頂きました。


なぐらの語源


租税の稲などを収納した郷倉の所在地か

小鹿野町下小鹿野の耕地名。秋父で倉のつく地名を拾ってみると、大神楽、小倉、藤倉、橋倉、田倉、奈倉などが目につくが、奈倉を除いては、全て岩や崖地についている地名である。(本書56、298頁、大神楽・藤倉の項参照)この奈倉地区は、元下小鹿野村に属し、赤平川左岸の段丘上にあって、後ろには低い山並みを背負っているが、平野部がこの辺りでは比較的広く、そのまま旧小鹿野町に向かって艮く広がっている。そこには特に目
立つような岩もなく、他の倉地名との共通点は・認められない。
 この地を特徴づけるものは、中世の奈倉氏3代の館跡である。地区を巡って北流からいきなり西流へと湾曲する赤平川の崖上に構えた奈倉氏館は、中世の典型的な築城の形だが、秩父平氏の系譜を引く奈倉加貿守行家の居館とされている。下って永禄13年(1570)鉢形北条の傘下にあった奈倉下野守重則は、甲斐の武田信玄の侵攻を迎えて討死する。
 奈倉一族は現越谷市に移って那倉氏を名乗る。江戸中期に子孫の名倉直賢が江戸の千住で骨接ぎ業を開くと、その弟子たちが奈倉堂の名を受け継いで各地に整骨院を開き、その数は二百数十を数えて、近年まで接骨というと奈倉堂といわれるほどにその名を高めた。
 鉢形城主北条氏邦の朱印状にも奈倉の名が見えるが、『秩父志』では、下小鹿野に「字名倉といふ所あり。納倉にて昔の郷倉の所なり」と、地名の謂れを断定している。
 郷介は各地で奈倉、那倉、名倉などの字を当てているが、元は納倉で、郷倉=郷蔵があった所だということである。郷倉とは平安初期に定められ、正倉の代わりに郡内の郷毎に置かれた、租納の陥や殼物の収納庫である。江戸時代には年貢米を収納したり、飢饉に備えて殼物を貯蔵したりするために、郷村に設置されている。
 愛知県北設楽郡の名倉地区は鎌倉時代の文書では菜倉と書き、後には名蔵、奈倉、那倉、名倉、納庫などいろいろに書かれたという。地元では、菜は食物を表すので、食料の貯蔵庫としての菜倉地名ではないかといわれている。また、島根県松江市美保関町の奈倉鼻という岬の近くには、稲倉明神社がある。ここはイナクラがナグラになったものかという。

 これらの例を見ると、小鹿野町の奈倉も「秩父志」のいう納倉=菜倉・稲倉が語源だったのかと思えてくる。その理由を挙げてみると、まずこの辺り一帯に小さいながらも7世紀前半のものとされる古墳が散在することである。もう一つは隣接する土地の名が泉田といって、文字通り田んぼが広がっていたことである。
 古墳群は上手の旧小鹿野村寄りの方にも続いている。更に旧小鹿野地区には条里制の遺跡も判然としているのだが、下小鹿野地区にはそうした区画は見つかっていない。そのことや中世以降の旧小鹿野地区の発展ぶりを見ると、上下合わせた小鹿野地区の一番下外れに当たる地域に納倉を建てたものだろうかという疑問も湧いてくる。
 そこで、がらりと発想を変えてみると、奈倉地区は先にも述べたように、この辺りでは珍しいほどの長い地形である。
つまり、かつては長原であったはずである。そのナガハラがナガラ↓ナグラと変化したと見るのはどうだろうか。しかし、これも確証はない。秩父地域に多い岩や崖を表すクラ地名のなかで、唯一その地形を持たない奈倉地区の名の謂れが納倉なのか長原なのか、興味が尽きないところである。

奈倉館跡の特別展2006年参照を


「ようばけ」の語源

ようばけ
岩崖の古語が幾重にも転化して秩父式呼称に

 埼玉県立自然の博物館の説明によると、約1700万年前、日本列島が誕生して間もなく、関東山地を中心とした地域は一つの島をつくっていて、現在の秩父盆地の西縁まで海が広がっていた。それから200万年の間、海底の土砂崩れを伴いながら部分的な隆起や沈降を繰り返し、約1500万年前には泥中に様々な生物の化石を残して、古秩父湾は消滅する。
 そのことを証明する地層や当時の希少な海棲動物の化石を産出する場所など六ヵ所を合わせて、平成28年(2016)年に全国初の複合指定として、国の天然記念物の指定を受けた。
 そのなかの一つで、秩父盆地層群秩父町層と呼ばれる、約1500年前(新生代第三紀中紀)に堆積して、その後赤平川によって浸食されて現在の形になった「ようばけ」は、小鹿野町下小鹿野奈倉地区にある。


 ようばけのバケは上にヨウが付いたための連濁音で、もとはハケである。ハケは関東方言で崖を表す。まさに、ようばけは赤平川の浸食によって切り立った崖になっている。
 では、よう崖のヨウは何かということになるが、最近唱えられだした、夕方になると真正面から西陽が当たって輝くから、太陽の崖という意味で陽崖であるという説が、町や県の出版物にも採り入れられて、定説になっているかのようである。だが、朝陽ならともかく、夕陽では特別な輝きでも見せない限りは、いまひとつ説得力に欠けるのではないか。
それよりも、いつから言いだしたものかは知らないが、太陽をお日様とか、お天道様などといっていた山村の人たちが、陽などという漢語めいた言葉を使って呼んだろうかと思うと、はなはだ疑問である。
 近代になって地質学者によって注目されるまでは、人家も少ない片田舎の辺鄙なところにある崖なので、外部の人にはほとんど目につかなかったはずである。地元の人たちにとっては、時々落石があることから、子どもの水遊びまで口うるさく注意しなければならないだけで、危険な魚礁以外にはなんの意味も持たない厄介ものというだけではなかったか。
 私は長い間、魚の棲む崖という意味でヨウバケと呼んだものではないかと思っていた。
堆積した泥岩や砂礫層の重なる崖は日々風化を重ね、時々崩れ落ちて川の中に大小の岩石
を累積させる。そこは魚の恰好の棲みかとなる。日本が高度成長期に入る前までは、山村の住民にとって川魚は重要な動物蛋白源だったから、魚の集まる所は誰でも知っていたので、それはごく自然な呼び名だと思ったのである。




 魚をサカナと呼ぶようになったのは、明治以降のことで、それまではナあるいはウオだった。ウオはイオともいい秩父では一般にヨーと発音していた。釣りは「ヨー釣り」、釣った魚が跳ね出さないように口をすぼめた腰龍は「ヨー取り腰龍」といった。故に、魚の棲む崖としてヨウバケではないかと考えたわけである。

 ところが、筒井功氏の「日本の地名」を読んで、目から鱗の落ちる思いで、一気にヨウバケの意味が理解できた。
 著者は群馬・福島・新潟3県境が接する辺りの山岳部に、ユウの語が付いた沢や山の名がたくさんあることに注目する。「幽ノ沢」、「夕沢」、「幽倉沢」、「板幽沢」、「高幽山」、「大幽沢」、「小幽沢」など。いずれも山深い岩場につけられた名称であることに気付きながら、試行錯誤の末、「ユウは岩と全く同語で、その訛りにすぎない」ことに気付く。
 著者の説明はこうである。「岩は古くは「イハ」(より正確にはイファに近い)これがイハ↓ユハ↓ユフ↓ユウと変化した。・・・いずれも日本語ではごく普通に起きる音韻変化である。多くの地方ではイハがイワになっただけだが、先に挙げたところでは、もう少し大きな転誂が生じたのである。ユウはイワの方言だといえる。九州・大分県の山布岳も火山性の立派な岩山であり、ひょっとしたらこれかもしれない」。



 ユウを岩と置き換えれば、先の「幽ノ沢」、「夕沢」は「岩ノ沢」、「岩沢」となり、他のすべてが、その地質にそのまま当てはまる地名‥となる。
 ヨウバケはどうか。秩父方言は多摩、相模原、山梨北部から長野、群馬、新潟の一部に多くの共通点を持っているが、一つの特色として、百合をヨリ・ヨロといい、夕べをヨンベ、夕飯をヨウメシというようにユをヨに転化させる例が多い。その伝でいけばユウバケは容易にヨウバケとなる。ユウバケーヨウバケが秩父風な別な言い方の「岩ン崖」を表す言葉とすれば、地域の誰もが白然に口にする呼び名だったのだろう。


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