#奈倉 #名倉 #那倉 #なぐら
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桓武天皇の後裔である奈倉氏は、坂東平氏の一つ秩父氏・秩父館(下小鹿野)から分家した畠山氏の「行家」が奈倉加賀守行家を名乗り、名倉右京亮を号したのが「なぐら」姓の始まり。場所を変え奈倉が名倉・那倉にもなった。
では詳しく↓
平安時代からの長い系図(今から800年も前)から奈倉の歴史はわかる。秩父一族秩父氏が居を構えていた場所は今の吉田小学校の敷地。秩父氏は秩父牧(まき)という武士が使う馬の軍事訓練所を経営して、柵の中で馬の軍事訓練や調教をやっていた。
系図をさかのぼると、桓武天皇という天皇の八代の孫にあたる秩父武基(たけもと)が秩父牧の「別当」(所長)として下吉田の取方に居を構えたのが始まり。そこを秩父氏館とした。それ以後、秩父氏は重綱(しげつな)、重弘(しげひろ)、重能(しげよし)と、この吉田の地に過ごし、秩父重能の代にわたってその館を大里郡の畠山に移し、そこから畠山という名前に変わって畠山一族になった。この重能の子供が武蔵武士を代表する畠山重忠公という有名な武将です。奈倉一族もその秩父氏一族から別れた名流の武士で親戚に当たります。
ここの奈倉に居を構えたのは秩父氏から分家。室町時代、鎌倉時代末の今から500年か550年くらい前のこと。この地に居を構えて、奈倉という姓を名乗り始めた。奈倉行家、奈倉重家、奈倉重則の3代が居を構え、この地の経営にあたっていた。荘園の管理、作物の管理。合わせて地域の安全を守るというのが使命だった。100mくらいの大きな正方形の範囲が館の跡ではないかと言われています。お殿様、奥方、子供達もそれにつかえる者も、その館の周辺に城下町の様に色んな職業に関わる方々が住んでいた。百数十年この地で経営されて、途中で奈倉重家が奈倉に妙見様を勧請してお祀りした。それから大徳院を開山し、それを奈倉一族の菩提寺とした。大徳院に町の文化財の木造阿弥陀如来像(金箔で貼ってあり、非常に古い形。平安時代末から鎌倉時代初期の800年ぐらい前の名品の仏様)
奈倉三代が居を構えたあと、戦国時代の末に秩父の地域は甲斐の国山梨から長野県信州にかけて武田信玄がこの地も領有しようとして入ってくる。寄居に鉢形城があった関係で小田原に本家を構えていた北条氏の領有した土地。その土地をめぐって壮大な合戦が繰り広げられる。その一つの拠点が寄居の鉢形城。鉢形城が天正18年に武田信玄が入ってきて合戦が行われて奈倉氏の一族も武田によって形勢不利となった。戦国時代末期に戦国時代の城としての機能は終了し、そのあと奈倉一族は一時的に今の越谷市の大泊あたりに居を移す。その後奈倉一族は江戸の千住に居を構える(接骨の名医名倉堂始祖)。
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