第12話 何とも度派手なインド文化

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  5月18日 6時 凄いボリュームの音楽で目が覚める。ここでは毎朝、音楽やお経が聞こえて来る。10日も続いた下痢も治まったようだ。昨日の医者に診断書を書いてもらいに行くと10Re又とられた。見てると、インド人の患者からはせいぜいとって3Re程なのに!『具合いが良くなったのだからまぁいいか』

 のんびり映画でも楽しもう、と街に出た。映画館の前はインド風スナック売りや客でにぎわっていた。[MAHAN]と言う映画をやっていたが、一言で言って支離滅裂。1本の映画の中にミュージカル有り、喜劇悲劇有り、派手で、その展開には付いて行けない面白さが有る。後半2度も停電があり、こりゃあかん!しかしインドの人はかなり楽しんでいるようで、手拍子足拍子、いい場面では拍手もにぎやか、停電の抗議もやんやと、足を踏みならし、その時間を興じているようだった。

 ホテルへの帰り道で又びっくり。ガァーガーと割れた大きな音楽が聞こえたと思ったら、何かのグループが、象を先頭にらくだや、派手に飾った神様と共に大行列だった。何を意図するものかは解らないが、列の最後の舞台付き自動車では団長らしき人が気持ち良さそうに歌っていた。日本の街なかでカラオケ行進でもしたら楽しいだろうなぁ。しかし何ともブーブーガーガーの雑音にしか聞こえない音楽だった。

 5月19日 6時シムラー行きバスに乗る。12時間余りのバスの旅だ。ほとんどが砂利道で、右へ左への峠道が続く。休憩にバスを留めることがあるが、トイレがなく、裕子はかなり困ったようだ。裕子の話では、インドの婦人は、広くサリーの裾を広げて用を足すらしく、ズボンの裕子は隠しようも無く我慢の連続だった。途中飲んだ、アップルジュースのおいしかった事。売れずにいたのか、発酵して、りんご酒になっていたのだ。パンクもしたりやっとの事でシムラーに着いたときは、雨と霧の夕暮れだった。


夜のシムラー

歩く人もセンス良く、町並みも英国風だ

 

 シムラーは英国統治時代、夏の間首都として利用され、イギリス人の避暑地として栄え、山の尾根にぎっしりとホテルや教会、レストランなど並び、しゃれたにぎやかな街だ。標高2206m.

 メインストリートは、インドの金持ちが一堂に集まった感じで実に凄い。何とか見つけたホテルも60Reと今までで最高の値だった。洗練されたインド料理にもありつけ、美しい夜景は値千金だ。

 5月20日 街を歩くと、様々な店にインドの贅沢品が並んでいる。シルク、カシミア等の布製品は見ているだけでうっとりしてしまう。エレガントなインドの貴婦人が美しいサリーを風になびかせて歩く道。残念ながら我々には滞在費がもたない。安宿を探してみたが、何処も百Reはざらで、今居るところが1番安いようだ。ここには3泊だけにして、ヒマラヤの裾野のマナリーへの切符を即早予約した。
 5月21日 とても冷え込む。はがきを書いたり、絵を描いたりと午前中を過ごす。郵便局、銀行へ行き、ピザやホットドックを片手に見て歩き。日中もかなり肌寒く、思わずすてきなマフラーやカシミアに手が伸びたが、懐を考えてあきらめた。小さな遊園地をみつけ観覧車に乗る。直径は小さいが、そのスピードの早いこと、何分と無く回り続けて楽しくも疲れてしまった。

 疲れると言えば、インド人の視線も凄い。みんなにとって日本人も珍しいのだろう、よく視線を感じるのだが、こちらが気が付いてインド人を見ても、いっこうに視線を反らすことがなく、じろじろと見続けるのだ。2〜3m程の距離でそれをやられると辛いものがある。日本の中の外人さんの気持ちも解ろうと言うものだ。

 5月22日 またしても12時間ほどのバスの旅だ。天気は悪く、ときどき降る雨の中、悪路を走り続けた。午後には氷河の谷の絶壁の道が続いた。100m以上のほとんど垂直の岩をぎりぎり車が通れる程けづっただけの所を、対向車があるとバックしたり、無理に路肩を行く恐ろしい道だ。家ほどもある岩がはるか下の斜面にごろごろしていて、川の流れは早く、水量もかなりある。その間バスはほとんど止まらず、息を抜く間も無く、よくぞ生きてたどり着けたと思わずにはいられない旅だった。マナリーでは雨の中、引かれるままにゲストハウスに行き、ほっとひと息入れることが出来た。

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