福島原発20km圏内ツアー2013~2017まとめ

2017年ツアー後の報告

福島原発20km圏内ツアーに参加して

福島を忘れてはいけない。福島の現実は報道と同じかを確かめたい。そんな想いで始まった「原発とめよう秩父人」主催の1泊2日ツアーに初回から参加した。第一回は2013年5月,第二回2015年5月。そして今回の第三回2017年5月27~28日でした。まず感じたのは風景が綺麗になってきていると言うこと。しかしそれは一口にうまく隠されているという事ではないかと強く感じました。

〈風景〉13年5月にはフレコンバッグは各家の近辺など何処にも積んであり、田畑も草ぼうぼうの荒れ地と化していた。浪江町に向かう途中ではイノシシがバスを横切り、あわやの衝突寸前だった。15年5月にはフレコンバッグは仮置き場に集められていた。田畑は真っ白に表土がはがされた荒れ地だった。遠くの山際などに黒いフレコンバッグの袋が山の様に何段にも積んであった。そして17年5月にはその黒いフレコンバッグの山は自然色のシートで覆われていて気がつかない様になっていた。さらには周りを塀で囲み、そこには町村のキャッチフレーズや「みらい」などと書き込まれていてカモフラージュされていました。隠される放射能だと感じた。
家は地震では大丈夫だったものも放射能で手つかずになり、現在では荒れ放題の様子が見られました。津波の被害のあった海岸線沿いは当初自動車や家屋の残骸だらけだったものが現在では綺麗に撤去されています。浪江町の請け戸の浜は原発から7Kmほどの浜。かつては漁業と海水浴の観光地としてにぎやかだったところ。600軒の家が流された。被災した人の救助には原発事故の為の避難命令が出て救助に行けなかった悲惨な場所だ。15年には残骸は綺麗に片付けられフレコンバッグに除染土や草などがつめられていた。そこには瓦礫の焼却場もできていた。そして今年それが稼働し煙を吐いていたのが印象的でした。

〈セシウム〉放射線にはその威力が半分になる半減期という基準があります。セシウム134の半減期は2年ですので6年経って約12%に減りました。セシウム137の半減期が30年。こちらは6年経って約87%になりました。全体ではセシウムの放射線量は約50%になったのです。これは自然減です。除染もしたのですがこの半減期による減衰が目立ちます。しかし、今後はしぶとい137がその減衰を阻みます。除染も道路と人家の周りだけで大半が除染のできない野山である福島では環境全てが大丈夫という物では無いのです。

〈空間線量μSv/h(マイクロシーベルト)〉バス車中での放射線量を毎回測定しています。車外の半分程度の測定値になりますが2013年には浪江町で3.68μSv/hだったのが15年には除染もあり0.58へ。13年の飯舘村が1.60μSv/hが15年には0.71、17年では0.52でした。15年のバスの中での放射線量の最高値は事故後初開通の国道6号線でした。6号線は福島第一原発のある大熊町、楢葉町等を通過する道です。毎時10μSv(マイクロ・シーベルト)近くを表示しました。この数値は年間被曝量に直すと約90ミリSvです(1ミリ=1000マイクロ)。年100ミリSvの線量を受けたとすると、がんで亡くなる方は1,000人の内5人に、20ミリシーベルトでは1000人に1人となるのが国際的な推定値です。日本の法の下では2万人にひとりがガンで死ぬ数値だと言われる1年間に1ミリSv以上の被曝をさせてはいけない事になっています。17年の6号線では2.835μSv/hでしたがこれは減ったとは言え年間25ミリSvになります。ちなみに深谷、秩父では現在約0.04μSv/hですので年間被曝量は0.35ミリSvです。今回、帰還地域となる地域を走行してもバス中で0.2~0.4μSv/hも多々あり、外の地表では未だに最高5.2μSv/hあったところもありました。とても安心して帰れる地域ではない事が解りました。
ちなみに6号線の道路脇の家々の敷地は侵入止めの柵が張り巡らせてあり庭の草や木がぼうぼうと茂り廃墟となっていました。所々で地表がはぎ取ってある風景も不気味なものです。

〈放射能濃度Bq/Kg(ベクレル)〉土壌等の放射能汚染をベクレル測定しました。単位Bq/Kgは1秒間、1Kg当たりで発せられる放射線の数です。13年の馬事公苑の土壌は40万Bq/Kgでした。15年にはすっかり除染され風景も変わっていました。土を測定すると4538.8Bq/Kgと減りました。除染され土を入れ替え、いったん0になったと考えても、この数値になってしまうと言う事でしょう。これは放射能がどこからか舞ってくると言う事です。15年に原発施設が見える請け戸の浜の道路横の土で6500Bq、17年は4630Bqでした。この17年の土の横のヨモギを測定したところ4.62Bq/Kg。セシウムの土から植物への移行率は0.1%程度となります。もちろん食品の国の基準100Bq/Kgからすれば5ベクレルは低いとは言え野菜等から体内に入ると内部被曝と成り大きな影響となります。
今回、飯舘村の細川牧場に行きました。牧場の敷地は除染され,その土は1880Bq/Kg。しかし道をはさんだ路肩では9610Bq/Kgでした。その雑草を測ると48Bq/Kgでした。移行率は0.5%です。当初はそれ以上の草を牧場の動物たちは食べていたのです。細川牧場ではこの6年で馬が40頭も異常なけいれんで死んだそうです。

〈昆虫や鳥〉細川さんは「足のないバッタや羽根が三枚の蝶を見た。螢もいっぱいいたのにいなくなった。鳥もいなくなったよ」とも言っていました。私も13年にはシジミチョウもいて採集したが、15年は虫や鳥が少ないと感じました。今年はほとんど虫や鳥がいないように感じた。今年は飯舘村の隣の伊達市の霊山に行き、朝の1時間ほど散策をした。しかし、大自然の中で蝶も数頭、鳥の声も数えられるほどの少なさ。蜘蛛の巣自身がまず見つからないほど少なかった。なお見える限りの緑の山々の風景の中になんと煙を一筋だして焼却場が稼働していた。廃棄物が燃やされたら廃棄する焼却場だそうです。煙は大丈夫なのかと心配でした。
福島原発事故後、琉球大学の大瀧丈二准教授がヤマトシジミの研究の中で、福島の蝶に自然界では見られない変異が見られると発表している。2011年9月で既に一般の地の2倍から6倍の羽の模様の異変が出ているとのことです。残念なのはこの生物や環境の調査研究を日本では2人しか扱っていないと言う事。福島の影響だと言う事を報告することになると研究費等の助成金で大学などに圧力がかかるのでは無いか。既に福島県外の病院に「福島県民の健康調査はしないように」と県がお触れを出したと同じようなお触れが、政府からも出ているのではないかと言う心配がある。

〈モニタリングポスト〉15年に途中にあったモニタリングポストでバスを止めていただき、測定比較をしてみた。モニタリングポストの数値は低い0.173であった。バスの中でも0.4μSv/hあるのにおかしい。モニタリングポストへ行くとその周りでは0.3と下がった。この測定器の周りが特に除染されさらに器機には低い数値で表示されるようになっていると感じた。これは13年に調べた状況と同じであった。その後の報道で器機の設定を低くなるようにしてある事が発覚し修正を余儀なくされたのが現実だった。これも隠される放射能だ。

〈実話1〉13年に南相馬が故郷の若林さんにご実家を案内していただいた。実家の兄夫婦の避難するきっかけは自治体などの連絡では無かった。原発での仕事仲間からここは大変危険だと話しがあったがガソリンが無かった。それを若林さんが新聞社へ報告したところ、なんと自衛隊が防護服を着てガソリンを持って助けに来てくれたとのことでした。

〈実話2〉15年に川俣の道の駅で偶然に出会った細川牧場の細川さんが立ち話。「良く見に来てくれた。3.11直後はドローンを飛ばして放射能を測定していたアメリカ兵に、ここに居てはいけない、すぐ避難しろと言われ避難した。行政に言われたのでは無い。飯舘村の村長は放射能レベルが高いことを黙っていろと区長に伝えた。とんでもないことが起こったんです。私が知っている限り、この辺で自殺した人は9人はいますよ。それと、ある若い妊娠中の嫁が雪の日に避難先から姑に言われ自宅に荷物を取りに行かされ、自宅前で気絶していたのを危機一髪で救ったこともあった」と、通常では聞けない話を聞くことができた。

〈実話3〉南相馬市・同慶寺の田中徳雲さんという若いご住職のお話を伺った。「事故の時にはいち早く家族とともに北陸へ避難したが、地域の人はガソリンも無く取り残されていることを知りガソリンを持って帰り地域の人の避難を助けました。南相馬には泊まることはできないので通いで来ています。一時は家族もバラバラで子供が寂しがったが避難先をいわき市にしたので落ち着いては居ます。しかし、そこも線量が気になります。危ない原発を人口の少ないところに造ったのは差別。その差別意識を卒業して欲しい。」

〈実話4〉15年には、いわき市の保育士Aさんからお話しがいただけた。「3.11の次の日、原発が危ないことを同級生の消防士から知り、家族で日立市まで9時間かけて逃げた。警察に体育館を教えてもらい、そこに行くと信じられない言葉を聞いた。日立市は福島県民を受け入れないというのです。市の職員に電話しても皆さんを受け入れることはできませんと言われ絶望した。あぁこうやって下手するとユダヤ人のようにどこかにつれてゆかれ隔離されるんだなとぞっとした。年寄りも連れてたらい回しされ、やっと保健所で休むことができた。避難したある人は道が封鎖されるという警察の立ち話を聞いて、あわてて逃げてきたという。この国は最大多数の最大幸福のために不平不満が大きくならないように少人数が犠牲になる。福島だけの問題では無い。何処でも起こる。」と実に恐ろしいお話しだったが現実だ。お話しは甲状腺ガンについて続けられた。「ガンの疑いは既に126人。手術は103人。プライバシーが邪魔して情報は出にくい。保健所は知っているが広報やホームページにも出ないのでほとんどの人が知らない。また、莫大なお金を使って多くの勉強会や講演が開かれています。毎回放射能は安全だと洗脳教育がなされています。危険だという討論をしようとするとさせてくれない。医大から来た講師は学校や保育の先生だけに教育し、先生達は反論しない。子供に対して同じ対応になる。」と洗脳教育がされていることを訴えていました。さらに「悲しいことに福島の人は反対運動ができない。非常なストレスがたまっている。考えないようにしている。学校教育の中で反論する勉強をしてこなかった」「行政は未だかつて一度もどのように避難したら良いかと指導していない」以上のように現実のお話しは大変ショッキングな内容ばかりであった。ちなみに2017年4月の参議院の東日本大震災復興特別委員会における厚労省の回答では2011年から2015年までの五年間で、福島県の9病院で行われた甲状腺悪性腫瘍の手術数は、1082件だとのことです。

〈伝〉17年には映画「飯舘村の母ちゃんたち・土とともに」の主役のお二人、榮子さんと芳子さんにもお会いできた。「今、分かれ目が来ている。 どの様な道に進むのか。自分の足で歩くこと生きること。自立していきたい。経済優先で突っ走るか。人間らしい生き方で行くのか。それを決めるのは国民ひとりひとりの心の問題。協力して共に生きる時代。人間のすることに完璧はない。過失があって人間だと思います。自己決定の中でみんなで生きることが大事」と、榮子さんから重要な示唆を授かった。

 以上現場福島に行き見聞きしたことで解るのは「真実は隠される」と言う事です。特に行政や企業は何も無かったことにしたいという引力が強い。私たちは真実を求め福島を忘れない意識を強くした。NO NUKES


2017/5/27-28

黒いフレコンバッグの置かれた仮置き場の山は
緑色のシートで覆われていた。

放置された田畑は雑草でブッシュと化している。
家々もジャングルの中という様相。

廃墟となっている住宅やアパート、店舗

放射能で住めない家が廃墟化している
6号線では最高値2.835μSv/h
(年間被爆25ミリシーベルト)

浪江町の請け戸の浜
津波で残ったのは一軒の家だけ。
7Km先に第一原発が見える。

第一原発の当たりを望遠してみる。
手前は請け戸の浜にできた瓦礫や除染物置き場


請け戸川の河川敷につくられていた道?
土留めにナンバーの入ったフレコンバッグが使われている。
国は8000Bq/Kg以下のものは公共工事に使うと宣言している。
海の防潮堤には既に3000ベクレル以下のものは利用しているという。

このフレコンバッグはいったい何Bq/Kgのものなのか?
大水の時に流されるのを承知での利用という事になる。
飯舘村 細川牧場
0.236μSv/h
(年間被爆2ミリシーベルト)

飯舘村役場敷地内排水溝

飯舘村役場敷地内排水溝
5.205μSv/h
植え込みでも1.409μSv/hありました。

伊達市 霊山からの眺め 0.291μSv/h
途中の登山道では0.740μSv/hの所もあった
左端に見えた施設は ⇒廃棄物焼却場

廃棄物焼却場
除染ゴミが無くなった時この施設も撤去するとのことだ

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ホリバpa1000


土壌と植物のベクレル測定と結果
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