「福島 初夏の6号線ツアー
あれから4年20km圏内の今を訪ねる」に参加して

 2015年 田島昭泉

①■このツアーは福島原発事故で避難地域になった地域を訪ねる1泊のツアーです。秩父に嫁に来られた南相馬の方が「私のふるさとがどうなったのか忘れないで欲しい」と企画されたもので私は2013年に続き2回目の参加でした。私も電気はあたり前に使っていた1人として責任を感じました。私たちは原発を都市から離れた人口の少ない地域に造って危険を押し付けてきたのですから。
 さて、初日の5月31日(日) 、バスは秩父を7時に出て、東北道白河ICからアウシュヴィッツ平和博物館へ。バスの中ではイスラエル人のダニーさんから収容所を生き延びた人の報告。「ユダヤ人は身ぐるみはがれ貨車に乗せられた。移送貨車の中ではバケツが2つ載せられた。ひとつには水が入り、空っぽのバケツには糞尿をいれた。屑のようなパンが床に投げられた。1週間以上家畜のように閉じ込められた貨車の中で何人も死んだが収容所に着くまではそのままにされて、ひどい臭いであった。貨車を出ると男と女と子供に選別され、仕事ができそうにない者はすぐにシャワー室(毒ガス室)に行かされた」とのこと。
 博物館では映像鑑賞後に展示資料を見た。収容所の写真には入り口ゲートに「働けば自由になる」と嘘の看板。また、高さ120センチの鉄棒があり、これに背が届かない子供は働けないと言う事で「選別」されシャワー室に送られたと言う事に強い印象を受けた。敷地にはアンネ記念館とユダヤ人移送貨車があり、展示物の中には当時の子供達が描いた絵が展示されていた。父親が目の前で射殺されたり、死体の山の絵などショックな場面ばかりであった。このおぞましい現実は「差別」からうまれた。原発も人の少ない田舎がねらわれ、事故後も苦痛をぬぐう事もできず、この差別と同根であると言うことが感じられた。双葉町に掲げられているという「原子力明るい未来のエネルギー」の看板は当時の子供に標語をつくらせた悲しい事実だ。
 さらに敷地には福島原発事故災害情報センターがあり、食品などの放射能測定室や原発事故映像などの展示があった。測定担当の方は「自治体では当時は暫定基準の500ベクレルで測定。基準が100ベクレルになった後でも半分の50ベクレルまでしか測らずに済まされた。ここでは1ベクレル以下まで測って報告した」との事だった。数ベクレルでも体内被曝の影響は大きく、その危険を訴えておられた。(ベクレルは1秒で1Kg当たりで発せられる放射線数) 


アウシュヴィッツ平和博物館
小渕館長さんにお話を聞く。

アウシュヴィッツ平和博物館
〒961-0835 福島県白河市白坂三輪台245
TEL 0248-28-2108 / FAX 0248-21-9068

ユダヤ人輸送貨車を模した貨車の中は展示室になっていた。

原発災害情報センター内には市民測定所ベク知るがあった。

奥の壁面には報道ジャーナリスト豊田直巳さんの写真展示。
手前には秩父人の脱原発カレンダーがあった。

別棟にはアンネフランクギャラリー
ソーラー発電と振興展示

②■一行は安達太良PAで休憩。ここの外の空間放射線量は地上1mで0.18μSv/h(マイクロシーベルト毎時は放射線の人体への影響を数値で表したもので、法の下では0.23を越えてはいけない)で既に秩父の5倍になっていた。芝生の地表では0.9μSv/hだった。
 東北自動車道を出て川俣の道の駅へ。ここで偶然にもドキュメント映画に多数出演している細川牧場の細川さんと出会って立ち話。「良く見に来てくれた。3.11直後はドローンを飛ばして放射能を測定していたアメリカ兵に、ここに居てはいけない、すぐ避難しろと言われ避難した。行政に言われたのでは無い。飯舘村の村長は放射能レベルが高いことを黙っていろと区長に伝えた。とんでもないことが起こったんです。私が知っている限り、この辺で自殺した人は9人はいますよ。それと、ある若い妊娠中の嫁が雪の日に避難先から姑に言われ自宅に荷物を取りに行かされ、自宅前で気絶していたのを危機一髪で救ったこともあった」と、通常では聞けない話を聞くことができた。細川さんは奇特にも現地を見てくれることに感謝してバスの中で飲んで下さいと缶ジュースを持ち込んで下さった。まるで逆の立場のようだった。除染されているはずの駐車場の隅の土からは3300ベクレルの放射線量が測定された。2年前は6万ベクレルだった。
 一行はいよいよ帰還困難地域の飯舘村に入っていった。バスの中での空間放射線量は最高で0.7μSv/h前後(2013年は1.6μSv/h)。測定器の警報は鳴りっぱなしであった。2年前は田畑は草ぼうぼうの荒れ地と化していたが、今回は真っ白に表土がはがされた荒れ地だった。見てみると遠くの山際などに黒いフレコンバックの袋が山の様に何段にも積んであり、なかには自然色のシートで覆われていて気がつかないようになっていた。表土をはがされ除染されているので道沿いは2年前より放射線量は半分へと低くなっていた。しかし、フレコンバックの山が至る処にある中で人は戻ることができるのか。帰れと言われこの環境に帰る気になるのか、大きな疑問を感じたし、恐怖さえ感じた。バスの中の数値で計算しても居住すれば年間6ミリシーベルトだ。(20ミリシーベルトなら千人に1人が癌になると言われている)  


安達太良PA の芝の上では0.9μSv/h。
年間被爆に直すと
0.9×24×365=7884μSv/Y =約8ミリシーベルト/年

川俣の道の駅で出会った細川さん

飯舘村 除染され表土がはがされ、白くなった田畑。
向こうにはフレコンバックが積まれている。

③■南相馬に入るとこの地が故郷の若林さんは方言を使い案内をして下さった。実家の兄夫婦の避難するきっかけは自治体などの連絡では無かった。原発での仕事仲間からここは大変危険だと話しがあったがガソリンが無かった。それを若林さんが新聞社へ報告したところ、驚いたことに自衛隊が防護服を着てガソリンを持って助けに来てくれたとのことでした。
 南相馬市の馬事公苑へと立ち寄った。2年前にここに立ち寄ったときに地表にあった土の放射線量は40万ベクレルだったが当時の地表の面影も無い程徹底的に除染された様で4500ベクレルであった。(ベクレルは1秒、1Kg当たりから発せられる放射線数)
 途中でモニタリングポストがあったのでバスを止めていただき、測定比較をしてみた。バスの中では0.4μSv/h。モニタリングポストへ行きその周りでは0.3と下がり、モニタリングポストの数値はさらに低い0.173であった。この測定器の周りが特に除染され機器も低い数値で表示されるようになっていると感じた。これは2年前と同じ状況である。以前、機器の設定を低くなるようにしてある事が発覚し修正を余儀なくされたと新聞に書いてあったのを思いだした。


↑→馬事公苑にて

モニタリングポストの数値はやはり低い。半分だ。

④■南相馬市の同慶寺につく。ここは原発から17㎞。相馬家累代の菩提寺として墓地がある。相馬家は源頼朝から領地を受けて以来連綿として本領を守り、明治に至っている。
 田中徳雲さんという若いご住職のお話を伺った。「3.11の慰霊のために被災地の復興を祈りながら青森県大間まで歩きました。事故の時にはいち早く家族とともに北陸へ避難したが、地域の人はガソリンも無く取り残されていることを知りガソリンを持って帰り地域の人の避難を助けました。南相馬には泊まることはできないので通いで来ています。一時は家族もバラバラで子供が寂しがったが避難先をいわき市にしたので落ち着いては居ます。しかし、そこも線量が気になります。危ない原発を人口の少ないところに造ったのは差別。その差別意識を卒業して欲しい。世の中は命の木。この木の葉を食べて育つイモムシがいる。食べ尽くしたら木も枯れる。食べ尽くす前に気がついて欲しい」
 境内にある樹齢一千年のイチョウを拝み、同慶寺を後にしました。


田中徳雲さん

樹齢一千年のイチョウ

⑤■バスは国道6号線に入り浪江町に向かう。途中イノシシがバスを横切りあわやの衝突寸前で冷や汗。
 検問を過ぎ請け戸の浜へ。原発から7Kmほどの浜。かつては漁業と海水浴の観光地としてにぎやかだったところ。600軒の家が流された。被災した人の救助には避難命令が出て救助に行けなかった悲惨な場所だ。未だに180名が行方不明だ。2年前からすれば道の脇の瓦礫は片付いていた。しかし家々の基礎がそのままに見える風景は悲しい。その向こうに原発の排気筒が白く見えていた。
 ここの道脇の砂土は測定したところ6500ベクレルだった。このツアーでは最高の数値だったのは全く除染されていないからだろう。除染すれば確かに数値は下がる。しかしその土は何処へ持って行くのか。見えないところに持って行くだけでよいのか。大きな疑問がわいた。そして未だにあの原発は全くと言って良いほど事故収束していない。
 2年前には無かった大規模な焼却場が浜の近くに建設されていた。もの悲しい風景をあとにした。


請け戸の浜の瓦礫の向こうに福島第1原発が見えた。

⑥■6号線に戻り双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町、広野町、そして宿のいわき市へと向かう。この道路は事故3年後の昨年、一般再開通された道だ。すぐに測定器の警報音が鳴り出した。数値はどんどん上がり、10μSv/h近くを表示した。バスの中ですらこの数値だ。道路脇の家々の敷地は侵入止めの柵が張り巡らせてあり、一帯は津波に被災してはいないが新築の家も全て空き家だ。大手電機メーカーやスーパーなどの建物も廃墟と化している。双葉町ではあの「原子力明るい未来のエネルギー」の看板が柵の向こうにちらっと見えた。
 道の駅「Jヴィレッジ湯遊ならは」にトイレ休憩に寄った。ここはかつては温泉保養施設、物産館としても立派な施設だったが今は双葉警察署臨時庁舎として使用されていた。敷地の線量は0.16μSv/hだった。年間1ミリシーベルトを超える数値で2万人にひとりがガンで死ぬ数値だと言われています。楢葉町では全町避難解除となるが心配だ。日本では普通の人々は1年間に1ミリシーベルト以上の被曝をしてはいけないし、させてもいけないという法律があるのに。
(なお、ツアーでの総被曝線量は0.007ミリシーベルト以下でした)


見える街角はゴーストタウンの様だ。
道の駅「Jヴィレッジ湯遊ならは」は双葉警察署臨時庁舎として使用されていた。
敷地の線量は0.16μSv/hだった。
モニタリングポストでは0.095μSv/h。

⑦■一行はいわき市湯本のホテルに到着。すぐに夕食と成った。夕食のお品書きの最後には「安心・安全な食材だけを使用しております」と表記してあった。 夕食後地元の保育士さんからお話しがいただけた。
「3.11の次の日、原発が危ないことを同級生の消防士から知り、家族で日立市まで9時間かけて逃げた。警察に体育館を教えてもらい、そこに行くと信じられない言葉を聞いた。日立市は福島県民を受け入れないというのです。市の職員に電話しても皆さんを受け入れることはできませんと言われ絶望した。あぁこうやって下手するとユダヤ人のようにどこかにつれてゆかれ隔離されるんだなとぞっとした。年寄りも連れてたらい回しされ、やっと保健所で休むことができた。避難したある人は道が封鎖されるという警察の立ち話を聞いて、あわてて逃げてきたという。この国は最大多数の最大幸福のために不平不満が大きくならないように少人数が犠牲になる。福島だけの問題では無い。何処でも起こる。」と実に恐ろしいお話しだったが現実だ。お話しは甲状腺ガンについて続けられた。「ガンの疑いは既に126人。手術は103人。プライバシーが邪魔して情報は出にくい。保健所は知っているが広報やホームページにも出ないのでほとんどの人が知らない。また、莫大なお金を使って多くの勉強会や講演が開かれています。毎回放射能は安全だと洗脳教育がなされています。危険だという討論をしようとするとさせてくれない。医大から来た講師は学校や保育の先生だけに教育し、先生達は反論しない。子供に対して同じ対応になる。」と洗脳教育がされていることを訴えていました。さらに「悲しいことに福島の人は反対運動ができない。非常なストレスがたまっている。考えないようにしている。学校教育の中で反論する勉強をしてこなかった」「行政は未だかつて一度もどのように避難したら良いかと指導していない」以上のように現実のお話しは大変ショッキングな内容ばかりであった。 

   


⑧■6月1日。朝風呂をいただき、朝食前に湯本温泉街の散歩にでかけた。温泉神社に平和を祈願し、足湯や彫刻の沢山ある歩道を行くと駅に着く。タオルと入場料金で駅内の温泉にも入れる。湯本を一望する御幸山に登った。そこに稼働していないモニタリングポストがあった。今は安全だとして止めたのだろうか。測定すると0.11μSv/hだった。街の中央にあるモニタリングポストも稼働していなかった。
 今日は観光が主。フラワーセンターでは美しい庭園にソーラーパネルが数カ所設置され、さらにバラ園には風力発電もあり印象的だった。小名浜のアクアマリンふくしまでは津波のビデオと施設での対応等のビデオを鑑賞してから珍しい魚たちの展示を見学した。物産店によりその駐車場を出たところにはメガソーラーが道路沿いに設置されていた。その小名浜では世界一の浮体型の洋上風力発電の祈願祭が6月中に催された。高さは浮体施設から先端までなんと220mというから名物がまた増える。出力7千Kワット。日本は洋上風力だけで15億kWの発電潜在力があるとの事。しかし今まで全く利用していなかった。これはその活用の最先端になる。
 帰りのバスの中では参加者から貴重な体験ができて良かった等、熱意ある報告がありました。核の恐ろしさは現実に触れて見てみればよくわかる。人の造った物で永久に故郷を失い文化が壊され、人の健康や命までもうばう事が二度とあってはならないと感じました。



20km圏ツアーでの放射能の測定結果とその考察

未来測定所秩父おがの代表 田島昭泉

 1泊2日の福島原発20km圏のツアーではバスの席の背もたれのところで放射線量を量ってきました。全体で数値は2年前と比較して半分ほどに低くなっていました。それは①道路周辺で除染された。②セシウム134の半減期は2年なのでセシウム全体では約8分の5になったからでしょう。なお、放射線量の最高値は6号線でした。
 6号線は双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町、広野町を通過しました。この道路は事故3年後の2014年に一般再開通された道です。道路脇の家々の敷地は侵入止めの柵が張り巡らせてありました。すぐに測定器の警報音が鳴り出しました。数値はどんどん上がり、毎時10μSv(マイクロ・シーベルト)近くを表示しました。この数値は年間被曝量に直すと約90ミリSvです(1ミリSv=1000マイクロSv)。窓の外の家屋の所ではバスの中の数値のさらに2倍から3倍はあります。国際的な推定値では年100ミリSvの線量を受けたとすると、がんで亡くなる方は1,000人の内5人です。道路や家の周りだけの除染をして、その廃棄物は野積みされたままの中、帰還政策が始まってますが大きな疑問です。日本の法の下では普通の人々は1年間に1ミリSv以上の被曝をしてはいけない。原発作業員被ばく量限度ですら50ミリSvです。秩父では約0.04μSv/時ですので年間被曝量は0.35ミリSvになります。
 一方、土壌等の放射能汚染を調べてみました。測定の単位Bq(ベクレル)は1秒間、1Kg当たりで発せられる放射線数です。2年前の馬事公苑の土壌は40万Bqでした。同じ場所へ行くとすっかり除染され風景も変わっていました。土を測定すると4538.8Bq。除染され土を入れ替え、いったん0になったと考えても、この数値になってしまうと言う事は放射能がどこからか舞ってくると言う事です。実際には2015年5月25日東電公表によれば福島原発事故現場からは未だに最大値で1時間当たり96万Bqの放射能が放出されているのです。今回、最高値を示したのは請け戸の浜の道路横の土で6500Bqでした。
 付け加えますが、深谷のある小学校でプールの底泥の測定を3年しました。2012年216Bq、14年33Bq、15年28Bqと毎年その泥からは放射能が出ています。これは土埃と共に風に乗って放射能が舞ってきたものです。今の埃には放射能が入っている事を考慮し、体内に入れないような生活をすることが重要だと言えます。体内の至近距離から強力な放射線を集中的に一か所に受けるという点で、同じ線量で比較すると内部被曝は外部被曝の600倍から1,000倍ほどの危険性があると言われています。

数値の単位はμSv/h   バス中測定2013年はこちら→●



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