雑苦罵乱日記

私だって人間だもの・・・(>_<) (=_=;)

2021/2/6 まず、光が俊太郎君と一緒になってくれることが決まった。アルピーノで1月30日に両家ご対面できたのはうれしいことだった。
しかしここ数ヶ月、不安定な自分を感じる。昨年より始まったコロナの影響。世界では既に感染者が1億人を超えた。死者は222万人だ。日本での感染者は40万人。死者は6000人。1月に予定だった文化センターでの公演は延期されたが2月で中止。来年度となる様だ。未来塾も1,2月は中止で終了。そんなさなかサモジロウさんに推薦いただいた人人点への出品は3月だ。しかし都美術館での展示はない。ギャラリーでの小品展示になる。心の不安定からかその作品の制作にも没頭できずにいる。もともと多動症とかADHDとかの気はあるけれど、最近は鬱病にも近いのかもしれないと思っている。そんな物のせいにしてはいけない。
2019年10月に家が全壊した春花家族は3月には深谷の近くの美里へ引っ越ししてしまう。喪失感が大きい。なぜ、もっと積極的に同居計画ができなかったか・・・。
今日は星仙が帰ってきて暮坪の家の修繕。倉庫やアウトドアに使うらしい。
アベ政権からスガ政権に昨年夏に総理が変わったが学術会議の委員の認可を気に入らない学者は除いた事からスタートし,あまりのひどさに絶句だ。昨日は菅の息子が高級官僚を接待したことでもめている。
森元総理の女性蔑視発言で世界が問題視している。2020東京オリンピックは2021年にもできないだろう。そもそも福島の復興も正常化もできぬまま、オリンピックを誘致したことが大きな疑問だった。フクシマを中途半端にしたまま、オリンピックの影響で建設費や労働力が復興から奪われ資材も高騰した。コロナも収束していないのに絶対やると豪語する森や、スガ。とんでもない連中だ。
作品制作はやはり孤独との戦いだ。
2018/04/23 原発事故と放射能、そして日本の原発情勢に振り回されて7年が過ぎた。
今年の年賀状には次の文面を添えた。
謹賀新年◆昨年のICANの素晴らしい活動とノーベル平和賞受賞。しかし日本は9月の「核兵器禁止条約」に参加せず、10月には結果として毎年日本が提出している「核廃絶決議案」は日本への不信感から賛成数は最低数となりました。◆埼玉県議会は12月に「原発再稼働推進」の意見書に賛成し可決。時代錯誤の決議です。いま電気は足りてる。核廃棄物は捨てる所が無い。原発は制御不可能。一度の事故で広大な汚染地帯を造る事になります。◆核の無い世界を願ってやみません。
−−−
日本の政治家は核には核を以て制すると言いたいのか。 なぜニュージーランドで制定できた様な非核法が日本でできないのか。残年でならない。日本は日米地位協定の中、アメリカの属国になっており空域も基地もアメリカに自由に使われている状況だ。日本は独立国ではない。そのことをなぜ政治家は問わないのか不思議でならない。
この頭の上の黒雲をどかさない限り私のもやもやは取れないし、私の真の幸せはやってこない。未来に命をつなげるには危険が多すぎて不安だ。地震国、火山国の狭い日本でいつ福島第一のような原発事故が起きるか時間の問題だ。文化も土地も放射能に奪われて逃げ惑う子孫を見たくない。
−−−
今日は路地スタの会議だった。昼間だったので今年初めて参加できた。
埼玉県の中心市街地活性化法設立に則って県内一番のりの事業展開を期待したのは12年前。商工会から事業申請が出た一大プロジェクトだった。その作業部会の一端が街の良いところをアピールしようとできた「路地スタ」だった。私が議員だった頃だ。残年ながら町長や多数の議員が尻込みをはじめて実現には到らなかった。路地スタだけが残り今に到り10回目の開催が6月3日だ。中心を創設できなかったと言うより降ってきた果報を捨てたこの町に単発のイヴェントだけでは衰退を救うことはできない。マンネリと人材不足が露呈し、私も意見をした。今後の展開は予測できない。
2018/4/21 久しぶりの心の吐露の書き込みです。
友人水村健治が3/25に入院した。ガンを克服したのに脊椎の骨が崩れた為に歩けないというのだ。
毎日のように行ったり来たりとお茶飲みながら芸術のこと、政治のこと、虫のこと、宇宙のことなど多々語った中だ。
残年でならない。ここ数週間、私も気の抜けたサイダーみたいな気分だ。
今日は小鹿野の春祭り。気分が乗らない。何もしたくない気分。
午後は朝霧裕さんのコンサートがグレーにて開催。
ゑ川史子さんも参加して良い雰囲気。純粋で素朴で美しい唄達。
大きな愛は世界を宇宙を救う。そんな気持ちを頂いた。世界を救いたいと思う。
昨年は武甲山の版画や小さな水彩画などを制作できた。今年はまだだ。気分が乗らない。
裕子は2年前に東京の日本語学校に1年通い講習を受けた。昨年は週一で東京で授業をしている。
今年は週2回授業しに上京する。自宅で25年以上やってきた塾も裕子の英語のシフトで新先生を募集し稼働始めた。私も便乗し数学の先生も4月から二人参加してる。リズムが変わってきて自分が安定しない。
子供達と接するのは好きなことだ。しかし3年前の新一年生の今までに無かった津波にやられた。
裕子が日本人に英語をではなく外国人に日本語を教えたいと思ったのもそれが故だ。
中学校では埼玉一の学力低下で未来塾を始めた。私も講師を務め3年目に突入。
それにしても決定的に今までと違う生徒が出始めている様な気がする。
そして日本の政治はアベ政治になってめちゃくちゃだ。嘘と無責任と危ない政治だ。
裕子は原発を稼働する日本も嫌いで外国で仕事をしたいと考えている。
このことも日本語講師を始めた大きな理由だ。私も原発稼働には憤りを強く感じる。
日本がいつまでもアメリカの地位協定を脱することもできずに属国となっていることが最も憂えるところだ。
国会でその協議がなされないのが大きな疑問である。日本は独立したくないのであろうか?
2015/4/10 大親友がとんでもない頑固者。信念は「自分の決めたことは変えない」ことらしい。
いわれのない誹謗言動だけは、やめて頂きたい。それだけなのだが通じない。
メールや電話などでやりとりしてきたが、嫌われの道を歩む決心は変わらないようだ。
大親友でも乗って行く船が違うようで残念。
4年の活動の中で、「原発推進」だという頑固者の知人とは縁が切れることもあった。
しかし、「脱原発」と言っている親友が周りから離れて行くような言動は絶対してほしくない私。
脱原発の方法は沢山の選択肢があるはず。
私の道で行くことにした。
原発止めよう秩父人を辞した屈辱のクリスマスの日から早4ヶ月。
あぁ頑固者の大親友よ。
(後日談:facebookでもブロックしたが本人が会いたいというので会った。
「99%は昭泉さんが理解してくれると思う。1%を我慢してくれればいいのだから」と言うことで。
友人として継続するが秩父人復帰はせず見たくないfacebookのブロックはとかないことにした。
秩父人には入らず要請を受けて納得したものだけ対応することにした)
2015/4/9
(平成
27年)
第一回設立当時から参加してきた秩父工藝家協会を辞した。
昨年の2月の1mを越す雪で窯場が倒壊し作業場が今後展開できそうにない。
精神的に余裕があるなら良いが脱原発活動に余力をうばわれている。
余裕ができたらひとりで陶芸を楽しめば良い。
2014

平成
26年
10月
8日
(水)
あっという間の年月が過ぎている。原発事故によって、生活ががらりと変わってしまった。
絵を描き、陶芸を楽しみ、花を追いかけ、グルメを求め、旅を楽しむ・・・。
そんな子育て卒業後の人生のはずだった。
自由な時間も脱原発への活動に費やし、かなり気分は180度変わった。
ひとりめの孫ができたのは原発事故前だったが、ちょうど2011/4/11にふたりめの孫誕生。
とんでもなく心配な中で生まれてきた孫。水は大丈夫か、ミルクはどうかと移住まで考えた。
そして上の孫も私たちが見なければならず大変な思いをした。
放射能と原発のことを勉強した。とんでもないことばかりの現実。政府や東電の嘘。原子力村の横暴。
一般新聞やTVなどの報道も各社それぞれの思惑で正反対。まさに信じられない世界が展開している。
ヨウ素を買い、空間線量計を買い、市民測定所まで作り食品のベクレルを測定した。
政府は当時民主党政権で、原発については脱依存の方向であったが自民党政権になった原発推進に一変。
このままでは将来の日本、世界への幸福な展望は無い。
情報交換を!→原発とめよう秩父人facebook(2014/12で脱会)
平成
23年
2011年3月11日 東北地方大震災 福島第1原発事故
2009

平成21年
11月
5日
今日は午前中は障害者にホームページ作製講習会を私が講師で催した。時間は2時間半と短かったが基本は伝達できたようです。楽しく挑戦する姿が美しい。午後は手話講習会。こちらも皆が笑いながらの講習。少しでも話が通じるとうれしいものです。まだ5回目ですが今後が難しくなりそうです。
家に帰るとある方から電話『議長が○○さん、副議長が○○さんになった』とのこと。これは予想通り。大変心配な委員会などもある。
10月29日の任期を持って3期9年の議会の道を閉ざした自分。引退は寂しいものです。が、これも選んだ道。自分を生かす議員としての道はこの町にはないと感じた。ひとりの人間 田島昭泉として生きてゆく。
多くの応援を戴いた方々には感謝の気持ちでいっぱいだ。
先日、お礼の手紙を持って挨拶に行きました。涙が出るようなお言葉を戴いたり。
何で出なかったんですか?と、おしかりを受けたり。ほんとありがとう御座いました。
数ヶ月もしないうちに何もなかったかのような議会と町の雰囲気になるのだろうか・・・
(なぜ出馬しなかったのかには多くの理由があるが、小さなジンクスとして「ひとつを得ればひとつを失う」
他の理由は、・・・・・。「義を通す」ということ。)
5月
26日
政治的なことで、人間的な感情で夢が塞がりそうになる
理不尽なことでへこんだ気持ちは戻らない
でも、気を取り直し頑張る。

最近よく開くのが宮下洋二さんの詩集。ひとつ読むたび涙が出てくる。
なんと先日のアルピーノさんの色紙展に出品されていた。私も出品していた。
約20年前の出会いが思い出される。
詩集は小学校1年生の娘が読み
今は亡き母が入院中だった時に読み
そして私が読む
4月
末日
隣の秩父市での市長選で久喜邦康さんが大差を付けての当選。志を貫く姿はご立派です。
もちろんこれから4年のお仕事が正念場です。
議員の立場とは全く逆のお立場。だからこそ生き方そのものが大きく問われる。
奇をてらわずに良いと思うことをどんどん実践していただきたい。

私はと言えば、世の中がこの世界不況でげっそりしているのと同じように何か抜け殻のような気分。
不安を不安のままに、悲しみを悲しみのままに過ごす。
今日は久しぶりのまとまった雨。気分とマッチする。
平成21年
(2009)
3月末日
3月の議会中に義兄(57)の死の連絡が入る。ショックだ。ご冥福を祈るばかりだ。
長い3月議会も終了。いつもの議員たちのことごとく足を引っ張る発言に閉口。
私自身の発言は至って少なかった。なぜ?と多くの人に聴かれた。
この日記にもざっくばらんとは書けない心情。
反発する声はひとりでも大きい。賛成する意見はその10倍ないと持ちこたえられない。
まして力を入れて支持していたものが揺らいでいたのでは力も萎えるというものだ。
平成20年
(2008)
12月21日
昨日は最愛の議員同胞の告別式。そして12月議会中の8日に議長職を辞したばかりであった。
余命3ヶ月のガン告知後にも2年間奮闘した。9月議会でも全日程を采配した。その議場でのお姿が忘れられない。
31歳で当選し、7期に渡る議員活動。59歳であった。(12/17没)
「住民が主人公」をモットーにまさに自身を捨てての活動をしてきた方だ。細かな配慮と「これでもか」の追求が光る方でした。
合併論争のなか住民活動に大きな貢献をして下さった。実に健康な方だったが、連日連夜の合併運動で私も共に一度だけふらふらして休んだことがあった。
町民によるミュージカルで共に役者を演じた時を思い出す。警察役の彼の「まてぇ〜」の一声だけで会場が沸いたのを覚えている。
コーラスグループでの公演では男性がごく少ない中で頑張って声を出していた。
スタイリストで珈琲好き。最後には待望のトライアンフと言うバイクに乗って粋な方でした。
敬愛の念を込めてご冥福をお祈り致します。
12月1日 昨夜ある県議の政治活動報告会に出席した。
続く挨拶は誠によく働いてくれる政治家だとのお褒めばかり。選挙に協力させて頂いたのでうれしいし、何か自分がほめられているようで涙が出た。その方の奥様とちょっとお話ししようものならすぐ涙が出てしまい恥ずかしかった。
奥様は旦那を支え、いかんとも大変なことではあるだろう・・・。
ほめられたことで鼻が高くならない方であるので心配はいらないと思う・・・このまま頑張って頂きたい。
私が褒められたのはいつだったろうか?ちょっと寂しく寒さがしみる今日この頃だ。
11月某日 芸術の秋だ。アート仲間の展覧会見に行っても、参加しても、実に気分が良い。
アーティストはそれぞれ全く違う方を向いているから束ねるのは難しいが、一人一人の生き様は実にわかりやすく真っ直ぐで好感が持てる。俺は偉いんだという所がないのが良い。作品を精一杯創ってすがすがしい限りだ。
10月7日 長若の山をトレッキング。気分の良い方達と気分のいいコース。こんな日がなければ生きて行けないヨネ。
10月6日 昨日のお日待ちでは地区の方に長くお堅い話ばかりしてしまった。反応も解らない。
議会活動もよじ曲がったことばかりで、有意義な話ができる気分ではない。
そして今日はなぜか重ならないのが不思議なくらいぞろぞろひっきりなしに電話と人が来る。
議会がらみと友人など6名と会った。上の空ではなかったか心配になる。
ただ最愛の友人の病気のことでは熱いものと重いものが胸の内に残った。
最後は夕方、与党の集まり。まぁ、方向が見えてきた。まだ妥協案が成立したわけではないが。唯一の救いではあった。
9月某日 議会は法律だけで運転するものとは違った庶民の立場や地元の企業の立場に立った目線と政策を持たねばならないのではないか?
あまりに頭でっかち堅すぎる議員さんのきつい窮屈な軋轢(アツレキ)によって職員は精気を失っている様な気がする。
たまったストレスで→こんな詩ができた。
平成20年
(2008)
6月某日
実に情けなくなった。人が嫌いだからその政策も受け入れられない。そんな感じの方々が多いのです。
真っ向反対で妥協点をと言う人もいない。残念。
あの3月にがむしゃらに進めたことは何だったのか。
正直言って、すっかりやる気が起きなくなった。なにせ筋を曲げないのは2人ほどになってしまったから・・・
提案型の妥協点を見つけてもらいたい。
平成20年
(2008)
3月19日
今日は私にとって最悪の日。あのような方と同じ空気を吸っていることに嫌気がさす日だった。
弱者への愛も町の大切な施設への愛着もなければ、それを何とかしようとしていることに足を引っ張る発言ばかり。
古い方もアドバイスを受けたら答えるぐらいならかっこいいし頼りになるが、もううんざり。若い者や、新しいことをやろうとかする人へのアドバイスや、こういう利便はできないかとか前向きなご意見なら好感が持てるが・・・何につけても進もうとしていることに釘ばかり刺す人間たち。どうして後押しや協力ができないのか。自分が真実、権威と信じる愛のない実に可哀想な人たちである。
平成19年
3月18日
ひとり暮らしの娘2人も帰るので、ずっと前から予定していた家族全員での大宮でのフランス料理の食事会・・・の日のはずだった。
おととい入ってきた選挙がらみの集まり。代理を頼んだが、その方は今回の選挙ではあまり動きたくないとのこと。
説得すればするほど自分のことはキャンセルしても集まりに行かねばならないとなる・・・食事会を私は断念。
娘達は涙。あげくは4人だけで大宮に向かったが、その家内からは事故渋滞でと連絡。
正味、元気の出ない夕べであった。(ちょっと子供みたいにすねたくなる数日)
・・・そして、今、私の政治人生を掛けた行動に出ても良いかと思っている。
平成19年
(2007)
2月11日
今日は息子と薪割りをした。久しぶりだ。気分がいい。こんな日がなけりゃ生きて行けないのが私。

さて、1月に入り県議選に向けての活動の連続。4月が告示だ。長い選挙戦だ。
人はどちらかに投票する。党によっては色ははっきりしているが、無所属の多い地方の議員もいずれはっきりとどちらかに加勢する。
その天秤棒はどうやって傾くのか・・・。
金ですか?親戚だからですか?人の好き嫌いからですか?
多くの判断があるようですね。
「出たい政治家より、出したい政治家」そんな言葉をどこかで見ました。
平成18年
2006
4月9日
朝、電話がかかる。今日は広報22号を発行した。それについてのご意見だ。「あなたはバカだ。辞めるべきだ。何にもあの人のことを知らない。会社のことも知らないバカだ。」 できるだけ感情的にならないように対応したが根本的しこりがあるようで、いかんともならない。罵声も浴びる事もある。
前期(2期目)では大合併に反対したために普段の活動の挨拶の中でも町のトップに攻撃されることもあった。いいことをしようとしても、議員田島の手柄にしたくないので田島の意見は聞くなと言ったような見えない力もはたらいていた。まこと議員とは責任もあり判断については罵声も届く辛い仕事。ほめられてうぬぼれるとたたかれる。
議員の務めとは何か。利己的に成らず町政をチェックし、町の繁栄につながる意見をする。それ以上は自分の判断で個人的に坦々と活動し実践して行くしかない。
今日は皆野町の町長選挙。23日は新秩父市の議会議員選挙だ。新たな挑戦が人々の幸せにつながることを願うだけだ。
平成16年
2004
8月4日
吉田町の町長選の告示が3日。8日が投票となった。
純真無垢なAさんが現職に対抗することとなった。Aさんは全て自分の足で吉田町の全戸を歩きその思いを訴えた。「みなさまの願いを訴える人が居ないので、たまたま私が代表で立候補するのです。皆さんひとりひとりが立候補する選挙です。」
多くの人の願いや苦悩を一手に抱えて立候補したAさんの出陣の言葉に目頭が熱くなりました。

私の身辺では合併によって大きく不和が生じています。
残念ですがそれぞれの意思というものを通せば、その様になるのは致し方ないことと思います。
全く見えない国の合併の指針と意図に底辺の地方は振り回されて、精神的に大きく疲弊してきています。
無理やりに成長させてきた経済はバブルにはじけ、しかもなお御上の机上の計画図は、将来が見えない。
なぜ特例債などのような莫大な金額の借金を餌にしてまで合併をさせようとしたのか。
この日本の合併の施策のツケは大きいものになるだろう。
7月7日 連日の猛暑
吉田町の直接請求の扱いで、身辺二転三転。休まるとこなし。
議会は住民の縮図でもあろう。国も国民の縮図でもあろう。
問題は住民が小さなすそのから、大きな器の淵へ登り、中を覗けるかどうかだ。
ガラスの器なら登ることもない。淵を低く皿のようにしてもいいだろう。
一部始終の言動が見えないと人の善し悪しはわからない。
全く以て二転三転詭弁のうまい議員の発言にはうんざりする。全てを放送できたらいいのに!

さいたま市では特別職の報酬が上げられた。他の政令市と同じ程度にしなさいとの国のお達しだそうだ。
なぜ国は高い報酬の政令市に、さいたま市のように報酬を安くしなさいとできなかったのか疑問だ。
国をあげて経常出費を下げることをなぜ考えないのか?
所得倍増のご時世はとうに終わったのだ。
6月22日
台風6号
一過
暑い日
オリックスと近鉄が合併するとのこと。高騰する選手報酬と共に球場入場者数減少による赤字が原因だそうだ。
どうして思い切って全体の報酬が下げられないのか。このままでは高収入の読売ジャイアンツだけになっちゃうンじゃないの。
自治体も同じ。国を挙げて国家公務員の報酬を下げなければ、小さな自治体はやって行けなくなる。だからこそ交付税がその均等を守るためにあったのに、三位一体では多くの企業の本店がある太平洋ベルト地帯(k総理のいる神奈川とか・・・)だけがさらに収入が増えるだけ。高額所得者の減税もあったし。最近は弱い物いじめの政府を感じる。合併の特例債だって建設にしか使えないなんておかしい。献金体質の癒着を感じるのは私だけだろうか・・・。
平成16年
2004

6月18日
5月25日に吉田町の直接請求の署名簿が選管に提出された。722名。
6月15日選管の調査が終わり署名数683名となり、その縦覧が始まった。
秩父市議会の一般質問では「住民の声を大切にすべきだ」との声
荒川村の議会でも「なぜ説明もなく解散直後に4市町村が設置されたのか」と厳しい質問
素直に意識調査に添った合併を実行していたならば、今頃はすばらしいまちづくりに意欲を燃やしていたことだろう。
人の心のねじれを深くし、この治癒には相当の時間が掛かるものと感ずる。
正に民意と違った昭和の合併で血の雨が降ったという矢祭町の「合併はしない」トラウマとなるような感。

私の議会BBSも本当の意味で広く一般への質疑応答の場に育たなかった。
揚げ足取りの中傷合戦。ハンドルネームも人の物を使う異常さ。
顧みれば建設的な質問や意見はほとんど出てはきていない。
普段顔を合わせての発言や電話での問い合わせには納得の行く意見交換があるのに・・・。今朝BBSを一時閉鎖とした。

この5月には尊敬する議員が心の中から完全に消えた。 あっさりと筋を変える人だった。
淋しい秩父の梅雨だ
平成16年
4月6日
3月21日小鹿野での合併を問う住民投票が終了。その選択肢の設定も狂気の沙汰だったが、吉田の4市町村(秩父市)への協議再開も狂気の沙汰と言える。冷静になって考えて欲しい。トップ同士がこんな状態ではこの地域の雲は晴れない。見境のない合併になってしまった。
どうして素直に住民の声を反映させることができないのか?
イラク対アメリカ、シーア派の新たな激しい衝突が昨日あった。
対立は対立を生む。権力で住民の心を動かすことはできない。
この住民投票で負けたら職を辞す構えでいた。これを幸助議員に話したら「俺もそう考えている」と言った。侍だ。
平成16年
(2004年)
1月22日
20日太田市に資料を戴きに行った。教育特区のことと、市長の発言をまとめた冊子だ。
全国で第1号に教育特区が認められ中高一貫英語で授業の学校をつくるのだ。
さて清水市長の言葉の中に気になったことがあった。予算を組むのが大変だというのだ。
ばりばりにがんばっている市が大変だというのだ。人口は15万人。
さいたま市の様な政令指定都市は交付税が増えるそうであるが、全国的には交付税が減らされているからだ。
都市と比べても遜色なく働いたって、秩父では都心部に比べれば2割以上は所得は低い。
議員も報酬は小鹿野町では20万。秩父市の35万とは比べ物にならない。が、さらにさいたま市の62万円と比べると・・・
一体どのようなリストラが必要なのか?合併だけがリストラなのだろうか?
秩父がどんなに合併してもだだっぴろい所に12万人。
合併しても公平な福祉とサービスを受けるにはどうしたらよいのか?

2003
12月某日
自民党への入会募集の声が掛かった。
小鹿野の議員では共産党の1名を除くと私以外は皆、自民党に入ったそうだ。
「私は無党派、無派閥で出たので、このまま行きます。」と答え、お断りした。
どんなグループにいようが、是々非々で行動できる自分党で居たいからだ。
小さな地方では党で争っている余力はないはずだ。
11月9日
衆議院選挙
投票日
そんなに足りない物は何か。 どこへ行っても不平ばかりだ。「不知足」などという詩ができてしまった。
 poem:不知足

午後は農工高校に演劇を見に行った。
難しいストーリーを立派にこなしていた。役者が多い。学生達は元気がいい 安心した。

市内のカフェに立ち寄って堀口さんの作品展を見に行った。
ホッとする作品。生きた人の心を感じる作品。そして個性あるマスター ずいぶん語ってしまった。
カフェの空間は懐かしさを覚える。
9月29日
(月)
いつまで悪体ばかり言っていかねばならないのか。自分が自分の言葉で腐って行くような気分だ。
男らしくけじめのある答弁と姿勢がないのが残念至極。トップと取り巻きの詭弁にはうんざりだ。
8月27日
(水)
下の6月13日以来休みはない。夏休みもとうとうどこへも家族を連れて行くことができなかった。
今までの人生でキャンプに行かない夏は中学生以来無かったと言うのに・・・
お盆も家でお線香をあげただけ。お墓まいりにも行けない夏。
「自主住民投票」も24日に終了。片づけもほぼ終わる。
皆が体に不調を覚えている。
誰がほんとに、町のことを考えているのか? どの方向が一番いいのか?
今、未来を見ることはできない。 心の集まりは、物事を動かす。そう信じるしかない。
6月20日
(金)
両神の菖蒲園へ 行きました。
2日間全力投球の議会。その準備。疲れました。
両神も財政的には大変な状況と思いますが、菖蒲園は入場無料。
沢山の方に無料の麦茶サービス 「いただきます」に「どうぞどうぞ」の笑顔。
「心のふるさと」と成るにふさわしいお土地柄。そんな村が隣にあることに、うれしさと誇りを感じました。
美しい菖蒲の花とその向こうのどこまでも蒼い山々。ベンチに座って眺めていると涙がこぼれそうでした。
家に着くと昨日までの疲れか、熱が出てしまいました。世界が平和であります様に。
私が発会から参加しているパソボラ
そこで受講生同士が参加できるメーリングリストが出来た。
数日前の話題に「菖蒲園」がでた。花とパソボラは心の救いにもなっている様な・・・
6月13
(金)
川柳
「 晴れぬ空 政治をぬけだし ジョイフルへ 」

合併問題はあまりにも晴れが見えない雲行き
せめて花の美しい庭園をみることで自分に「活」を入れたい
違う角度からも眺めることが必要だ。いったい何ヶ月ぶりの精神的な休暇だろうか。

俳句を始めたというサモジロー氏。先日はその話で盛り上がった。2〜3年前ジョイフル本田を教えてくれたのはサモ&文子さん。ここのボタニックガーデンはいい。
平成15年
2003
2月9日
(日)
都幾川村に行く。新聞に載っていたレストランに行く。
のどかな里村の一角にあり、さわやかな雰囲気。入口に「ゆうゆうの会」の書いてあるドアもあって何かなぁ?と思っているとそれはボランティアの会の事務所でした。
ボン・レギューム」おいしい野菜という意味らしい。有機野菜のお店だった。
小川町をはじめここ比企郡では有機野菜やエコロジーに熱心な人が多いようです。大変おいしく戴いた。
手書きの「とき川マップ」をもらって都幾川を散策ドライブ。
「とき川の小物屋さん」では村の人が作った個性的な工芸品などが並んでいた。何処にでもあるような物ではなく好感が持てる作品だった。
自分でできる手打ちそばの「いこいの里」はミカンのなる南斜面の眺めの良いところにあり、満席状態でした。友人達と作った店の「ポッポの木」オーガニック派の拠点と言うことで、梅酢ジュース、チャイ、あられ、等戴き、楽しいお話も聞かせてもらった。
人口8千人あまりの村だが、のどかで美しくポリシーのある村づくりができていると感じた。
景観を大切にすること  おもてなしの心を大切にすること
改めて大変なことだが日本に欠けてきた物ではないだろうか
都会の人は風景や心に癒しを求めてくるはずだ
2003年
2月3日
(月)
昨日は消防団の非常招集訓練
朝は−8°の中出動。立派な繰法ができました。
防災活動の尽力もしていただいており重要ですが、日々の訓練が、いざというときに役立つことを祈っています。

今日は節分。地元の方が集まっての行事ができました。
挨拶の中で私も「できる合併を早期にしたい」と議会への働きかけを約束しました。
合併についての方向は議会でも地元でも様々なので、私にはできる合併を理想的にする方向をとって行きたいと考えます。
方丈様が「吉田は小鹿野がしてくれないなら皆野とするようだ」と、先を心配する声を聞きました。
人生「呉越同舟」で行ければいいのですが・・・
平成14年
2002
11/10
(日)
消防団の点検日  昨日は平年より8日早い雪(熊谷)
今日の朝はひときわ寒かったが日が出て気温が上がった。毎晩の練習の成果を見た。
消防団には大変ご苦労様と言いたい。今後、多くの分野で住民のボランティアが必要になってくるだろう。
さて、伊豆沢川原での放水点検を橋から見学。
見学する方の中でタバコを吸う人があり、そのひとりが、川へ吸いがらをポイ捨て!
モラルが問われるところだ。東京では歩きタバコで罰金の条例もできた。
2002年11月1日より、
東京都千代田区の環境条例違反者への過料徴収が開始されました。
路上での喫煙が禁止されている区域での喫煙に対して、暫定的に2000円の過料が科せられます。
注意・指導をされても歩きタバコやポイ捨てをやめない場合には2万円以下の過料が徴収されます(10月は指導のみ、11月から当面は2000円を徴収)。
10/19
(土)
大沢悠里氏の講演が小鹿野文化センターでありました。
「 健康が何より ニコニコしていればNK細胞が悪い細胞殺してくれる。 笑顔は最高のお化粧
ほめましょう 悪口はいけません。 感謝の気持ちを大切に。「ありがとう」を一日百編も 外に出て話しましょう 」
ユーモアを交えての笑いっぱなしのすばらしい講演でした。
1日楽しく過ごすためにも、いやなことは早くその日に解決。心がけたいなぁ

黒澤さんちに行って来た。夫婦で床のオイル塗装をしていた。小学校へ作品もって交流会授業をの話に、快諾。
ありがとう。ダニーさんも同じく快諾。すばらしい友に出会えたことに感謝。
9/21
(土)
自然や環境を守ってゆくと言うことは堅い鬼のような決意が必要だと夕べ感じました。
それ以上は言えませんが・・・
今日は無垢な優しい心に出会いました。何か本人は寂しそうです。これ以上は言えませんが・・・

イタリアの映画「イル・ポスティーヌ」をみた。
素朴で美しい心の持ち主が詩人と出会い、恋をして、それは有名な詩人をも超えた美しい心
じんわりと効いてきた。 おやすみなさい。
9/17
(火)
15日の夜にADSLにはリンクできていた。16日にはスピードも確認できた
4.3qでも360Kbpsでたのでまぁまぁ\(^^\) (/^^)/
今日が本当のNTT発表の開通日。既に100人は申し込みがあるようです。記念日的な日だけど有線ADSLは遠のくのか神妙。

平成14年2002
9/8
(日)
次女のKN高校の文化祭を見学に行く。若者が精一杯に楽しんでいる姿は良いものだ。
天気も好転し、あふれる人達。元気があってイイ。寄居の土空間(カフェ)で休んで帰る。

小鹿野文化センターで江川紹子さん「私の取材ノートから」の講演会があった。
今の若者はどんな夢を持ち何がしたいのかをいろんな所で聞いている。そこには、悪くはないが、疑問が生まれる日本の若者の夢の形があるようだ。オーム取材、イラク取材などでご自身がつかんだ自分のしたいことの話。「人は夢・生き甲斐をどうやって見つけてゆくのか?」がテーマの講演だった。取材から得た言葉「夢を子供に託すのはやめよう」「夢に定年はない」。夢が大切だということをあらためて感じました。
平成13年
2001
9月
父、泉男が8月11日になくなった。77歳であった。
平成12年の選挙に出る事で悩んでいる時に「やめなさい」と一度だけ言った。
しかし私の決心が決まるとあとは「がんばれ」とだけ言った。
私が22の時、歩いて北海道まで行こうとした時、「おまえは決めたらやるだろうが、世間体を気にせずあきらめる事も大事だぞ」と言ってくれた事を思い出す。
闘病し2年、最後の1週間だけの入院であの世に召された。痛いとも言わず、自分の足で歩き通した父だった。