奈倉の歌碑

宮沢賢治と保阪嘉内のうた

宮沢賢治(1896-1933)は20歳のとき、1916年大正5年9月2日〜8日まで地質調査で秩父を訪れました。
その間、小鹿野の「ようばけ」に立ち寄ったことが親友・保阪嘉内に宛てた1枚のハガキから推測されます。
賢治「さはやかに 半月かゝる薄明の 秩父の峡の かへり道かな」1916年9月4日(本陣寿旅館へ宿泊と言われる)
保阪嘉内「この山は 小鹿野の町も見へずして 太古の層に 白百合の咲く」賢治が来た後に訪ね来て読む。
保阪嘉内次男で医師である保阪庸夫氏(山梨)は奈倉文庫と交流。短歌を寄せていただいている。
上武鉄道(秩父鉄道)が1914(大03)大宮(秩父)まで開通しているので、その2年後に賢治たちが来た事になる。

「 さわやかに 半月かゝる 薄明の 秩父の峡の かへり道かな 」宮沢賢治
「 この山は 小鹿野の町も 見えずして 太古の層に 白百合の咲く 」保阪嘉内
(この写真は高橋文雄さんが記念してつくった年賀状です)
歌碑を記念して奈倉の秋祭りで実施された寸劇→●  
宮沢賢治が秩父に来た日程などまとめたものは「年譜宮沢賢治伝」に有りますが,
わかりやすくまとめて下さっているHPをご紹介⇒●「宮沢賢治の事務所」さん

2014/9/7(日)  宮沢賢治・保阪嘉内友情の歌碑祭が開催されました。アザレア記念会のHPでも紹介


奈倉の児童生徒さんが『雨にも負けず』朗読披露。


イベントのその他の内容(2014)


奈倉のよいところ10カ所を歌った歌 「奈倉十境」

田中義村の歌碑「奈倉十境」 「奈具良十境」
田中義村 作
場所 事象 うた
梅の原 春霞 ひらき初めてゆ鴬の
声もにぎへる 梅の原かな
大原 菫(すみれ) 紫のすみれ花咲く 大原に
群れてぞ遊ぶ 春のひぐらし
辻寺 行きかひの 人をとヾむる辻寺の
桜は春のほたしなるらん
田向 神のます 柞(ははそ)の森の 下露に
光り交がへて 飛ぶ蛍かな
母巣森 紅葉 照り渡る 柞の森の紅葉かな
夕日の影の なほぞ残れる
中村 夕照 めづらしや 外に眺めし中村の
影に夕日の渡る景色は
馬阪 時雨 こと山は夕日照りつつ馬阪の
見渡し曇る 村しぐれかな
向山 秋月 入り方を急(せき)て惜しみ出るなり
光さし向う山の端の月
姥塚 暮雪 草はみな 埋(うず)もる雪に姥塚の
印は残る 杉のひと本
海老澤 飛泉(たき) 足曳の山下露の積もりつヽ
末は渕なす海老沢の瀧

○この碑のことが紹介されている「秩父の文学碑」の案内HPはらだ出版へ
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