タージマハール・ショーセン ぶらりインド100日の旅  

  この旅日記は、1983年4月5日から7月16日までのインド・ネパールを中心に、若いふたりが歩いた記録である。

旅の大まかな日程はこんな感じです

  1. 成田    4月5日発
  2. タイ     4月6日〜
  3. ネパール  4月7日〜(30日間)
  4. インド    5月6日〜(70日間)
  5. バングラディッシュ 7月13日〜
  6. タイ   7月14日〜
  7. 成田・・・7月16日着

 

               目次

                    
序章 
 なぜインドに引かれたのだろう?原始美術に興味を持ち、宗教絵画に目が向いたとき、その共通項である曼陀羅的世界の表現に大きな感動を覚えたのです。特に仏教美術の持つ多彩な宇宙表現に引かれたのは言うまでもない。そして、ある時私の描く絵を見た人の「インドに興味をお持ちですか?」の言葉によって、インドへ行こう・・インドへ行かねば・・・となったのである。

 とはいえ、結婚してまだ1年目。海外旅行は未経験。お金もない。妻の裕子はしかし、私の強いインドへの興味を知って協力してくれることとなったのである。 さてそれからは1年間、二人せっせとアルバイト。インドの資料集め、パスポートの取得、と着々と準備を進めた。しかし、安いチケットを探しても、往復で一人最低36万円!(当時のレートは1$=240円)となると、二人で百万は貯めねば!・・・おのずとアルバイトにも力が入った。

 インド。ネパールとなるとコレラや肝炎の予防接種も受け、ビザもそれぞれ大使館へ申請に行った。インドの大使館では小さな事務所にサリーを着たインド人がいて、少しだけインドが身近になった気分であった。

 カーストによって差別される世界。地球上で一番貧しいと言われる不可触餞民。反面大富豪・マハラジャの存在。偉大な仏教が生まれたが、しかし今はその面影もないと言うインド。ビートルズやサンタナが修行に行ったインド。無抵抗・無謀力主義で自由をかちとった、ガンジーの生まれた地、インド。いったいインドは僕ら二人をどの様に向かえてくれるのだろうか?

 

 

第1話 インドはやっぱり夢なのか

 

 かねてより自然指向の二人は、いつか子供を育てるならば、自然豊かな土地でと考えていた。ましてインドに3カ月も行こうと言うとき、当時1カ月7万円の家賃を留守中も払うことは大きな負担であった。二人の稼ぎではとてもそこまではできないし・・・やはりインドは遠いのかと思ったが、インドの旅も大きな決意、脱都会もこの際と決意をして、多摩や秩父に空き家を求めての週末旅行も始まった。幸運にもインドへの出発予定の3カ月前には、秩父の山奥に空き家を借りることができ、真冬の秩父路を家の修復に毎週新宿から通うこととなった。時には寝袋を担いで、はんごうで食事を作り・・・気分はすでにインドでヒマラヤをたびするようだった。引越しも済ませた3月13日からは、さて色々な準備をしてはいたが、肝心の航空チケットはまだ僕たちの手元にはなかった。旅行会社の話では、出発の2・3日前に郵送するとの事だった。・・・しかし、出発日前日の4月4日になっても配達されず、とうとう出発の朝の電話では、上野のスカイライナーの改札前でお渡ししますとの事・・・・いよいよだまされたのか?インドは夢なのか?の気分だった。

 ところで、僕たちの旅の荷物はと言うと、インドへ3ヶ月と言うこともあって、沢山の胃腸薬・虫もひどいと聴いていたのでキンチョール・シーツや寝袋、おみやげには折り紙など。二人とも絵を書くのでスケッチブックや絵の具。写真のフィルムは12本。荷物はリュックにつめて金めの物はサイドバックにいれて、更にパスポート、トラベラーチェックなどは、腹巻のように肌に付けられる小物入れをつくった。裕子のにもつは6s、僕のは20s。用意万端ではあった。そんな荷物を担いで、さては上野に。・・・来ました来ました旅行会社の人が、ふーふーいいながら。夢はやっとの事でパキスタン航空の飛行機に乗り込むことが出来たのでした。

 

 

第2話 貧乏旅行者はどこでも泊まる!(タイ)

 

 4月5日15時50分 PK761便は成田を離陸した。ヘッドホーンからは中東の音楽、機内はすでに日本語の通用しない世界だ。上空からのとても幻想的な夕日と雲の流れを見て、遥かな旅の行く道の期待と不安に胸の中は渦巻いていた。人はまったく違った言葉や人種、自然に振れた時どう対応するのだろう?

 19時30分 マニラにてトランジット。機外に出て、肌の色の濃い、視線の強い人の中を抜けトイレに行く。モスグリーンの小さいが背の高い小便器に向くと、後ろの用もなく立ちすくむ人の陰におびえ、隣に用足しにきた人の背の高さにもびくびくしながら、早々と機内へ戻った。20時40分 美しいマニラの街の夜景の上を一路、タイへと飛行した。

 0時20分(現地タイム) タイのバンコクに着く。軍隊の制服のような空港の係員の聞き取れぬ英語を何とかかわし、真夜中のロビーに出た。夜中の外国の街をウロウロするほど不安な事もないので、ロビーのトイレの前にシーツと寝袋を出して、記念すべき第一夜を迎えたのであった。(貧乏旅行者はどこでも寝る覚悟が必要)

 4月6日 人の足音に起こされ、裕子はさっそく蚊に刺されたのをボリボリしながら、ふたりはトイレで顔を洗ったのでした。驚いたのはロビーを出たときの外の暑さ!朝から凄い蒸し暑さで、その中をドアも取れたバスに乗り、街へと向かった。ちなみにバスの乗客は、勝手に乗り降りする人もいるようで、水牛が田畑を耕す外ののどかな風景とはうらはらに、いつ振り落とされぬやの走りっぷり。そして、街の中は凄い排気ガス。ルールもへったくれもなく、バイクや車が走り回っている。圧倒されるばかりの二人の貧乏旅行者は、明星という名のホテルを見つけ、ほっとしたのです。が、しかし部屋の暗さに目がなれて、眺めてみれば、マットの綿がボロボロと破れ目から出ているし、ドアの鍵もない。ヤモリが辺りを歩き回り、トイレはと言うと・・・これがあの本当の手洗い式。幾らかの予備知識はあっても、面白さを越えて不安が募るのでした。さらに昼の3時間、チャイナタウンを歩くと、空気の悪さと暑さに、ふたりはもうほとんど病気。忍者ハットリ君の漫画を読んでいたお菓子屋の少年も、カメムシのにおいにも似たヌードル(ラーメン)も、実は白昼夢ではなかったのかと思われるほど疲れたのでした。ふーーー(タイでジュウスを買うと、ビンの中身を氷入りのビニール袋にいれてストロウを挿してくれる。この冷たさだけが救いだった。)

 4月7日 蚊とナンキンムシにたたられて、起床。バミナム(例のラーメン)を食べ、バスに乗り空港へ。建物の中は冷房が効いていて天国のよう!

 16時10分 ロイヤルネパール航空RA402便にてネパールへ離陸。飛行機は横に4座席の小さな927型。加速時に、コップやビンががらがらと通路を転がるのにはびっくり。サービスのビールを頂いていると、隣のジバンという人(ネパール人)と親しくなり、明日は彼が案内をしてくれると言うことになった。一時間もすると窓の外は夕暮れ、箱庭のようなネパールの風景が見えてきた。

 

・バス賃一人3.5B(バーツ)・ホテル1泊2人で50B・バミナム10B

・1$=22.9B  1B(バーツ)は約10円

 

 

第3話 人を信じよう(ネパール)

 

 小さな丘を切り開いたような空港に降り立ち、ロビーで荷物がくるのを待った。係の人がカウンターまで運んでくれるのだが、のんびりしていてなかなか来ない。結局チップを払うと持ってきてくれる事に気が付いたのは、乗客の最後の方だった。税関はYES.NOだけで簡単に外へ出ることが出来たが、外はどっぷりと暗闇の中だった。カトマンズの街へは4q、不安な僕らをあざ笑うかのように、タクシーの運ちゃんが3人ほど寄ってきてべらべら喋りまくった。ぼられてはいけないと「バスに乗る!」と言い張り、付きまとう運ちゃんを避けながらあっちへウロウロ。こっちへウロウロと行ったり来たり。すると「1ルピー、ミドルバス」と言う人がいてバスストップ(バス停)を教えてもらった。親切な人もいるものだ。しばらく待っていると、青い帽子をかぶったチベットの男の人が、「どこへいくんだ?連れて行ってやる」と言うような意味の英語で話しかけてきた。彼はなかなか達者な英語でペラペラと話してくるが、こっちはチンプンカンプン。バスに乗り、車掌にお金を払おうとすると、彼が払ってくれた。どうなちゃってんの?彼は悪い人で、僕たちをどこかへ連れ去ろうとしているのではないか?不安は人を疑い深くする。「ストーンロッジへ行くんだ!どうしても行くんだ!」しつこいくらい彼に主張した。バスから降りて彼は先導するが、僕たちは道行く人に「ストーンロッジはこっちか?」と確認するが、それもらちが明かない。軒の低い崩れたような民家。白い目だけ浮き立つ、薄汚れた布をまとった人。二人は混乱した心のまま、しかしなんと着いたのです。青帽子のチベッタンはチップを要求するでもなく、握手と笑顔を残して去って行ったのでした。『疑ったりして後免ね』・・・二人は大混乱のうちに、狭くて迷路のような通路と階段を抜けた四畳半程の部屋の硬いベットに入ったのでした。

 ・1$=14.2Re(ルピー) 1Re=17円

 ・ネパール人は彫りが深くインド人に近い。チベット人は日本人にとても良く似ている。

 4月8日 6時、鳥の声も大きく、なにやら、もう街の活動は始まっているようだ。朝食を取りに外へでる。道から一段下がった薄くらい空間に、なにやら人がひしめいている。『ははあーこれがチャイ屋か』と中に入る。膝を突き合わせるように座り、湯気のたつチャイと棚の上の小さなパン、ゆで卵を一つ頂く。(二人で5.25Re) マ・ジャパニ・ホ(=私日本人です)とかメロ・ナム・タジマ・ホ(=私の名前は田島です)のネパール語を早速使ってみて反応を楽しむ余裕が出来た。ロッジの周りを歩いてみると、街の家はほとんどがレンガを積んで、素焼の瓦を載せただけの物だ。二人の泊まった部屋は5階で、よく倒れないと思うほどの造りだった。最初のネパール観光は、飛行機の中で知り合った、ジバン氏が案内をしてくれる約束だったので彼を待ったが、1時間が過ぎても来る気配もなく、二人で観光に歩きだした。

 スワヤンブー(通称:目玉寺院)を目指して、地図を頼りに歩いていく。途中、シバ寺院のある広場には土産物屋が沢山有り、「見るだけ!見るだけ!」(日本語)と、しつこく誘う。なにやらこの国の神様か?色とりどりのお面やブロンズの置物、毛織の袋物、セーター、曼陀羅の壁飾り・・・所せましとならんでいる。「ナイス・ナイス。ベリーチープ。」切望するような目付で、売り込んでくる。驚いた事に、道を歩いていると小さな子供が「両替!ハッシッシ・マリワナ」と付きまとう。この国の貧しさとたくましさを感じた。また街中には、至る所に犬、鶏、白い長い角の牛、アヒル、山羊など、自然に人と共存しているようで、人と動物は家族なんだと、なんだかうれしくなった。吐き出しの玄関からゴミを吐くと、どこからか小鳥や鶏がやってきてついばむ。残飯や紙屑は牛や山羊が片ずける。街の掃除やさんがいるわけだ。お負けに牛のしていったふんはその家の壁で干され、燃料となる。いちおう持ち主は居るのだろうが放し飼いで、時には乳も絞られ、持ちつ持たれつの感じ。

 街を出るとのどかな農村風景。小さな女の子に微笑みかけると、はずかしがって逃げちゃうのがかわいい。吊り橋を渡り、猿もいるスワヤンブー。小山の上の寺院の境内で一服していると、「アローアロー(ハロー)」と話しかけるネパール人が来て、ペラペラと変な英語を使って、手相を見たり、寺の中まで案内してくれたり、タントラの言葉を教えてくれたりとやたら親切。バス代を払ってくれたあのチベット人の事を思い出した。お礼にコーラをおごって帰ろうとすると・・・「神様に果物を捧げるから、2ドル払え」と言う。泊まっているホテルが約1ドルだし余りに高い。「ドルはない!」「じゃあaルピーはらえ」「こまかいのが無い」「じゃあ、くずせ!」向こうも引き下がらない。いい人だと思ったら押売ガイドだったのだ、・・・仕方なくガイド料と言うことで、5ルピーあげたら、「アイム。・アン・ハッピー」だって!。以後名所、旧跡では気を付けることとする。・・・だけどもっと大きな心で対応できればなんて思ったり・・・信じ切るってむずかしい

 夕食にエッグカレーやダルバー、屋台でサモサとポテトのカレー掛けを食べて帰る。やたら珍しい物を食べたくなった。

 

 

第4話 洗礼を受ける(ネパール)      

 4月9日 朝早く起きて、日の出を見ながらラトナ公園まで散歩する。朝はセーターを着ていても寒いほどである。(カトマンズは標高1400m)朝食にチャイヤでチャイ(ミルクティー)とナン(揚げパン)、ゆで卵を食べる。ネパールの人もほとんどがこのような質素な朝食で、パンにはジャムもバターも付けずに済ませている。さて、今日もジバン氏は来る気配もなく、二人ぶらぶらと観光に出かけた。土産屋の多いタメル地区を冷やかして歩くと、結構ものの値段を負けさせられる事が解った。どんな買物でも一度は「サスタキジー、マハンゴチャ」(負けて下さいよ、高いですよ)と言ってみることの必要性を感じた。レストランでバニラミルクシェーク、アップルパイ、ラッシー(ヨーグルトドリンク)等を食べ腹いっぱいになる。まさかネパールで、しかもおいしくってボリュームのあるアップルパイが食べれるなんて、!?。

 そして、見て歩き食べて歩きの夕食後。コットンの手織のズボンを買おうと歩き回っていると・・・・不意に襲った便意!『何がいけなかったのだろう?』とにかく急いでロッジに帰ろうとしたが、その時に限って裕子の勘を頼って道を進んでしまい、行けども行けども見知らぬ路地。やっと見覚えのある通りに出たときは、すでに限界に近く『ええぃ、暗がりでやっちまえ! こっちの人はみんなそうなんだから』と、思えども人が結構いる。「もう少し、あともう少し」と、裕子に励まされ、見えてきました我がロッジ! 跳んでつかんだ1階のトイレの取っ手。がたがた押したが開かない!扉が壊れているのかと、おもいっきり開けたら、ネパール人の先客。『ノックぐらい返してよ!』『神さまー』とばかり2階へ行くとここも先客。3階はトイレが見つからない。結局、4階のトイレに駆け込むことすでに遅く、運の悪いことを力なく悲しんだのでした。

 4月10日 朝の体調も良かったので、カトマンズから5qの古都パタンへ行く。ここはさすがにすばらしい建築物が多い。キョロキョロと歩いていると、出ました! 勝手に僕たちの見ている建物を変な英語で説明し、みやげ物屋へ連れて行き、ここは安いとばかりにすすめるのです。たまたま意に添うものがあったので、55Reの買物をすると・・・見てしまったのです。店のオジさんから10Reもらうのを・・・。説明もうるさいし、次々引っ張るので、さよならしたら、「ガイド料20Reよこせ!」・「ノー」・・・ついには口論になり、人だかりが出来てきたが、大きな声とジェスチャーで何とか切り抜ける。石彫の神様、古い木造の寺院、まるで京都を歩いている感覚にも似て、時間の壁を越えたようなひと時だった。途中動物園にも寄り、ぎゅうぎゅう詰めのバスに乗り帰る。(バス代1.25Re)

 夕食後、どうも日本から持ってきた服は、ここでは不自然に感じてきたので、コットンのネパール服の上下を50Reでかう。

 4月11日 夜中に2度もどし、下痢。朝38度の熱。昨日の夕食のカリフラワーとポテトのカレーがいけなかったのか?寝冷えによる風邪のためか?裕子にみかんやパン、ヨーグルトを買ってきてもらい、一日寝込むことになる。日本に手紙を出そうと、裕子は郵便局へ行く。20Re札だしておつり8.25Re。『こんなに高いのかな?』と思いながらも、スタンプ押してもらい帰ってきた。どうも腑に落ちなくて、人に聞くと、エアメールで1.25Reだと言われ、あぜん。10Reボラれたらしい。悔しがる裕子。しかしここではだまされた人が悪い。ここは日本とは違う。郵便局員とて、信用してはいけないのだ。後で解ったが、みかんもぼられていたようだ。日本人は定価で買うことに慣れすぎていて、言われた値段をそのまま受け入れる。ここではあらゆる買物に、値段の交渉が必要だと痛感した。以後財布は私が管理することにする。夜、持参のとろろ昆布を食べる。

 

 

第5話 ネパールの新年

 4月12日 チャイ屋でパンとチャイの朝食を取る。微熱が有るので寝ていると、(待ってました)ジバン氏がきた。のんびり歩いてみようと言うことになり、ジバン氏の案内で、ブッダナートへバスで行く。とても古い寺院を見て歩いたが、早い足取りで説明して行くので、結局のんびりと二人でこようと言うことになる。ジバン氏は日本が好きなネパール人で、日本で仕事がしたいと言っていた。いつもサングラスをかけたスリムなネパーリーだ。

 帰りのバスを公園で降りると凄い人だかり。今日はネパールの大晦日?に当たる日だと、ジバン氏が教えてくれた。楽団の行進がドンドンパッパラ行くと思えば、凄い花火の音。「大砲の空砲だよ」と教えてくれた。サリーや男の帽子(トッピ)の色とりどりな人の流れ。物売りや大道芸人。そんな中には、自ら手の甲をナイフで削って、見せ物にして物乞する者(顔も傷だらけ)や、顔に鼻も無く、のっぺらした中に目と口の穴だけ有るような人もいて、こちらはお金を恵む余裕も無いほどびっくりだ!!ロッジから見るとどの家の屋上にも人が沢山居て、外の祭を眺めている。夜中まで楽団がそこかしこで騒いでいた。

 4月13日 今朝は熱はないものの、二人とも下痢。外は雨。のんびり窓から外をスケッチして過ごす。午後、具合いもいいので、NAFA(ネパール・アート・??)へ行く。絵は刺激の無い西洋かぶれの物ばかりで、早々に帰る。途中、後ろ足の萎えた可愛そうな小犬がいたが、まったくだれも興味を示さない。ここでは犬は無益な動物で、とてもひどい扱いを良くみる。日本の犬は幸せである。ロッジの近くでジバン氏に合い、彼のおごりでチャイ屋にてネパリ菓子を食べる。砂糖水に付けたスポンジの様な菓子だった。特に正月らしい騒ぎはなかった。

 4月14日 初めて時間どうりに来たジバン氏に案内され、バドガオンという古い村に行く。中国から贈られたと言う、トロリーバス(1Re)で30分。正月の祭ビスケジャットラで大賑わいだ。五重の塔のある広場では、日本の山車(だし)の様なものを「うぉるせっ、うぉるせっ」と、かけ声を合わせて、みんなで引っ張ってる。日本の山車の原型だろうか?美術館ではすばらしい曼陀羅も見ることが出来た。さて、ジバン氏は、チャイや米をつぶしたお菓子、ポテトのカレーの味付けスナック、ドヒ(ヨーグルト)など、いろいろおごってくれる。そしてビザの事や宿の事、交通の事、仕事の事など聞いて来る。彼には日本はすぐに稼げる天国のように感じるらしいが・・・。僕たちは外食ばかりで高くつくし、野菜不足を心配。自炊もしようと、ガソリンコンロを市場で買う。蚊も多いので蚊帳も見つけて買う。

 4月15日 9時に銀行に行き、TCを換金。僕のサインが気に入らないらしく3度も書かされた。郵便局に葉書を3枚だしに行ったが、今回は5P(パイサ)少ない請求だった。(たまには儲ける事もある!)。二人とも疲れが出たのか、ロッジでごろごろ。3時頃イタリアンレストランで高いけど、スパゲッティを食べる。1人前が3人分はある大盛り。ほとんど食べきれず、持ち帰る。途中、アルミ鍋を買い、チャイ屋へ。入口で裕子が頭をぶつけ痛そうにしてたら1杯おごってくれた。うれしい!

 4月16日 朝早く起きて、ヒマラヤが一望できると言うナガルコットを目指す。トロリーバスでバドガオンまで来て、乗り換えのミニバスの乗り場へ。一人の子供が両手を縄で縛られ、待合所の椅子につながれている。人々が、ぐるりと取り巻いて、怒鳴ったりしてる。何か悪い事したのかしら?。この地では時々ショッキングなことが起こるが、僕たちは傍観者で居るしかなさそうだ。
1時間半バスに揺られ、終点。なんと凄い眺め。山また山、そして雪をかぶったヒマラヤが奥にぐるりと包んでいる。宿の看板を頼りにゲストハウスに行く。窓からも美しい山々が見える。部屋は広くて快適。お負けにチャイを出してくれてサービスもいい。庭先でスケッチしているとビオラの音が聞こえてきた。夕食は、チキンカレーとネパール風定食を頂いたが、今までで一番おいしかった。食後、マイラという気のいいボーイ(13才)に、いろいろネパールの言葉を、教えてもらった。彼は食堂のテーブルが自分のベッドらしい。ここの女主人によく使えている。宿賃と食事代を払いに行ってびっくり!。宿賃はフィフティーン(15)Reではなく、フィフティ(50)Re.チャイも別料金。お負けに、10%の税金付!。全て僕たちの落度。まだまだ旅に慣れない二人でした。おいしい夕食と、最高の夕陽を見たし、質のいいベッド。今宵を、神様ありがとう。なんのその!

 

 

第6話 世界の日の出(ネパール:ナガルコット)

 

 4月17日 5時半 標高2800m 山は花弁となり、ロータス(蓮の花)の中心にいるような、神神しい空気。光が雲間から、すじの様に伸び、僕たちを包み込む。「この世の始まりだ!」思わず言葉が出た。

 宿賃の安い、マウンテン・エベレスト・ロッジに移る。(25Re)ここには男主人の他に、ドゥワイとクマールという、英語ペラペラの下働きの男の子がいる。ドゥワイは八つぐらいの年で、遠く親元を離れて働きにきている。いつもニコニコとして、御主人のジーパンを洗ったり、食事のまかない、食器洗い、部屋の掃除、お使いとよく働く。四つ程年上のクマールにも使われて、見ていると可愛そう。今の日本の子供は幸せだ。スケッチに歩き、土地の子に花の名前を聞いたり、眺めの良いところで昼寝したり、とても幸せな1日。6時25分日没。赤く染めた空には星もきらめき出し、遠くカトマンズの街もキラキラと広い光の池となった。夕食は蝋燭を囲んで(電気は無い)御主人とクマールも一緒に、食事。ドゥワイは、おかわりや水を運んで食堂の隅で、みんなが食べ終わるのを見ていた。夜は台所の石の床の上で寝るらしい。ドゥワイがんばれ!内緒で折り紙やボールペンをあげたら、幼い子供の顔に戻って、大喜びしていた。

 4月18日 昨日のように日の出を見た。筆舌に尽くし難い、神神しい情景だ。

 ロッジのみんなとお別れして、バスに乗る。途中麻袋の荷物の山に、車内ほこりだらけ。気分が悪くなる。ストーンハウス・ロッジに着き、部屋に戻ると裕子はn度の熱でダウン。夕食はネパール製のラーメンにピアッツ(玉葱)、パァルン(法蓮草)を入れて、食べたら美味しかった。外は雷雨になった。

TCとは旅行小切手
パイサ(1Re=100P)

 

 

第7話 買物したり、売ってみたり(ネパール)

 

 4月19日 裕子が南京虫に喰われ、ボリボリと起床。いったいどこにいるのやら、やられるとかなり痒い。午前はひとり、ティミーの街へ焼物を買いに行く。買った土産はどうやって送るのやら考えもなく買い込んだ。午後は裕子と土産物を買いにフリークストリートへ。

 4月20日 今日も一日、土産物漁り。とことん負けさせた!ジャケット(125Reを75Re)・チベッタンリュック(110Reを70Re)・ポシェット(14Re2個を25Re)等など。店の叔父さんも苦笑い。悪かったかなーと気にもなるが、こちらも予算薄。負けられるものは、できるだけ、ねばるのが流儀だ。

 4月21日 裕子、またしてもゲリピー。昨日のフレッシュレモンがフレッシュでなかったようだ。

 さて今日はポカラ行きのバスの予約をしてからバザーに参加した。ダーラハラビンセンタワーの広場で他の服屋・小物屋・駄菓子屋に混じって風呂敷を広げたのだ! 文字道理、日本から持参の風呂敷を敷き、ジーパン(2枚)・シャツ(3まい)・靴下・手袋・ポストカード・ライター・シャープペン・ハンカチ等など日本の物を陳べたら、僕らの心配をよそに凄い人だかり。鷲づかみして持って行く人や、あちらから値段を言ってお金を置いて行く者。アッと言う間に、数枚のカードを残して売り切れたのでした。締めて340Re、とっても身軽になった2人でした。(ちなみに、盗む人はいなかった)

 おいしい野菜スープを自炊して、パンで夕食。とても楽しい一日でした。

 4月22日 土産物の小包を出しにポストオフィスへ行く。リストを2枚も3枚も書いたり、重さや中味のチェックでなんと2時間も掛かり、へとへと。ちゃんと日本に着くか?祈りつつ帰る。

 午後は絵を描き、4時にサンフランシスコからのミセス(ナディンさん)と会う。ポカラのチベッタンキャンプへ衣類のプレゼントを預かった。明日はポカラ!ヒマラヤの山が目の前の、美しい処だと聞いている。

 

 

第8話 命がけのバス移動(ネパール) 

 

 4月23日 5時起床。荷造りしてロッジを出る。6時、郵便局の前のバス発着場で待っていると、先日売り払った、僕の服を着ている人が歩いて来た。「やぁー」と立ち話になる。ちょっと前の、自分のファッションのネパール人が居ると言うのも、変な気分だが、彼はとても気に入っているようだ。

 6時半、目的のミニバスの屋根に大きな荷物は載せて、席に着く。ミニバスと言っても、決してミニでは無く、普通の大きさだ。シートは板の上にビニールがそのまま敷いて有るだけの、とても堅い物で、ガタガタしている。運転席の前に神様が奉ってある以外は何も飾り気も設備もない。7時15分、運転手の神様へのお祈り後、なんだかんだと気ままに出発。途中凄い崖道も、飛ばして走り、冷汗もの。(ちなみに、先週は、たてつずけに3台落ち、百人死んだとか!そしてその死亡者への保証は三十万円ほどだと言うことだ)二〇〇qの行程の中、2回ほどの休憩が有り、そこに、いろんな物売りがやってきて、食事やお菓子には不自由しない。モグリンと言う処では、手首ほどの、太いバナナも売っていた。渓谷、段々畑の山々、長い砂利道を越え、約8時間後ポカラの街に着く。

 バスの中で知り合った少年の案内で、マウンテンビューホテルに行く。3人部屋をTAX無しの20Re(三百四十円)で借りる。雷雨の間を縫って、湖まで散歩し、ロッジやレストランを見て歩く。のどかな風景と素朴な人々、子供達の笑顔、いい所だ。

 4月24日 5時半起床 まだ陽は出てはいないが雲もなく、アンナプルナ、マチャプチュレ(六九九三m)の勇壮なヒマラヤの山が目の前にそびえていた。巨大な壁、多くの山男を飲み込んだ山なのだ。

 朝食後、レイクサイドの端まで散歩。旅行者が多いのが気にかかるが、ここはリゾート地なのだろう。 日本人が経営するスルジェハウスに、宿を移す。スルジェとはこの日本人の奥さん(ネパーリー)の名前で、太陽の意味だ。部屋は15Reにしてもらう。僕は3時間も歩いて銀行に換金に行き、裕子は溜った汚れ物の洗濯。ここの宿には他に日本人が何人か居て気が楽だ。遅い昼食の後は、二人疲れも出て、昼寝。裕子は風邪気味だ。

 夕食は、おにぎり、ベジタブルロール(春巻)をいただき、食後は皆の旅話を聞き楽しく過ごす。夜の虫の声は、日本のそれと同じで、秋のようだった。

 4月25日 沢山の美しい鳥の声で目覚める。おいしい、チベッタンブレッドの朝食後、ガンダケホスピタルへ向かう。日本で出発前にみたテレビで、医療品が少なくて困っている事を知ったので、包帯をいっぱい持ってきたのを、プレゼントするためだ。(少しはいい事をしなくては!)日本人の看護婦さんの案内で、今井ドクトールに会い、無事手渡すことが出来た時はほっとした。また、こんな奥地にも日本人の援助が有る事にもびっくりした。荷が軽くなった私は、雨の中、古い街中を散策した。二十頭の馬を連れた行商が通ったり、楽しそうにおしゃべりしながら、縫い仕事する女衆、人種の違う顔立ちの混じる児童のにぎやかな下校に出会ったり、『自然だなー、いいなー』と、つくずく思ってしまうのでした。貧しいことと不幸とは別なんだ!

 おかゆに持参のとろろ、スープ、ロール、それになんと卵どんぶりの夕食で満腹。食後はマスターの平尾さん、2年に1回(9ヶ月)旅をしている絵描きのトシオさん、3ヶ月のインド旅行の途中の若い高野さん、パキスタンのラサールでマッサージ師に二百ドル盗られた斉藤さん、トレッキングしてきた女ひとり旅の滝沢さん、にぎやかに夜も更けるのを忘れて、話に花が咲きました。(久しぶりの日本語にほっとした)強いロキシー(地酒)も効いてきた。

 

 

第9話 のどかなレイクサイド(ネパール:ポカラ)

 

 4月26日 7時、レストランの建築作業の物音で目が覚める。このロッジは、まだホットシャワーの設備も無く、レストランも建築中なのだ。万事、のんびりとした天気まかせの手作業だ。

 トレッキングルートの途中のチベッタンキャンプに行く。強引な乗合ジープにも乗らず、長い道のりを楽しんだ。「あまなっと、あまなっと」と何か手に持って近寄る叔父さんがいた。チベットにも甘納豆があるのか?と思いつつ、見ると、それはアンモナイトの化石だった。(10Re) きつい上り道を経て、チベッタンキャンプに着いたが、衣服のプレゼントをする目的の人が見つからず、うろうろしていると、女の子に首飾りを買わされてしまった。キャンプの中は、大人が見あたらず、丸坊主のえんじの袈裟を着た子供が、凧上げをしている。縦穴式住居の様な家ばかりだ。サンフランシスコのナディンさんから預かった衣類をやっと目的の人に渡し、チベッタンティー(別名バター茶と言われ、油っぽくてしょっぱい)をご馳走になる。帰り道でなんと日本人の13名程のグループに出会う。皆カメラをぶら下げ、ハードスケジュールで可愛そうな足取りだった。
 4月27日 街へ買物をした帰り、ポカラ湖で2時間程ボートに乗る。途中2度も雷雨になり恐い思いをした。地元の子供4人乗せて遊んだが、とても明るく良い子だった。午後は、本格的な雷雨、そしてひょうも降り出した。トレッキングに行った高野さんの事が心配だ。停電が続く。絵を描いたりして過ごす。

 4月28日 熱がある。風邪らしい。隣の女性も四十度の熱でうなっている。心配だ。

 4月29日 平熱。宿を変える。高くて汚いが、ホットシャワーで1週間分の汚れを流して気分壮快。窓からは湖が見える。銀行に換金に行った帰り、片言の日本語を話す子供がいた。日本語を勉強して、お金を稼ぐらしい。なにやら解らぬ英語「マイファダル、フォトセントル」は「僕のお父さんはフォトセンターにいる」と解るのには時間がかかった。こちらの人はTHを「だ」、Rを「る」と発音するのだ。マダル、ファダル、ブラダルだ!牛乳を買って帰る。(中味3Re、ビン4Re)

 スルジェにてんぷらを食べに行くと、例のごとく、子供達がよく働き、楽しい雰囲気。いつもたむろしている電気屋の叔父さんは、例のごとく、ガンジャをやって上機嫌だ。「メロジンタキ、ラムロ、チャ」(私の人生良きものよ!)   

 4月30日 体調が悪い。天気は良く、アンナプルナがよく見える。牛乳は沸かすと固まってしまった。これを生で飲んでいたので具合いが悪かったのか!熱も出てきてふらふらになる。

 5月1日 食事に気を付けて1日寝て過ごす。レストランでフルーツヨーグルトを頼んだら、だいぶ水で薄めた味で(これだもの!)、フルーツだけ拾って食べた。

 5月2日 快晴。気分も良好。バスで市内へ行き、ビンドバシャン・テンプルに行く。子供達と言葉遊びをして過ごし帰る。着たバスは入口の外まで人がぶら下がっているので、やり過ごし、次のバスをつかまえた。3時も過ぎたが、スルジェでおいしい昼食を採る。レストランもだいぶ出来上がってきた。 5月3日 快晴。ネパールも明日にはお別れだ。スケッチしたり、チベッタンレストランでモモ(水牛の肉入りぎょーざ)を食べたりとポカラを堪能した。※以後インドでもモモはよく食べたが、様々な形と中味があり楽しみの一つだった。

 

 

第10話 秘境を抜けるとそこはインドだった

 

 5月4日 5時起床 6時バスに荷物を載せて出発を待っていると、見た事のあるカップル。カトマンズで最初の宿ストーンロッジの隣室にいた人だった。三ヶ月も肝炎で日本にも帰れずにいた彼が、少しは良くなったのだろう。

 バスは沢山の人を載せて山の奥に入って行った。僕たちの前に座っているヒッピー風の白人カップルは実に荷物が少なく、小さ目のナップザックひとつだけだ。旅はああ有りたいと思ったが、でも本当に足りてんのかしら?  

 わお!外の景色は凄い!百mや二百mはある急な渓谷の道だ。遥か向こうの山は等高線のように、段々畑になっていて、その上に粗末な家がポツンとある。いったいどうやって生活してるのか?人間って逞しいなぁ。途中のジャングルの中でふとバスが止まる。どこから湧くのか、カラフルな民族衣装の女子供が集まり、荷物を受け取ったりしている。バスは陸の孤島を行く船なのだ。

 4時半、バイラワ着 ここはインドへの通過点でこれと言った街ではないが、なるほど定食のカレーが、今までで1番辛く、インドに近いぞ!の感。しかし、その辛さは、僕たちに一抹の不安を与えるものだった。天井扇のある22Reの宿に泊まる。
 5月5日 8時発のミニバスでブッダの生誕地ルンビニーへ。バスはときどき運転手の気分で、何でもない所で留まり、何するでなくみんなも待っている。1時間半程でルンビニーに着いた。えっここが?っと思うほど何もない。広い公園の中に塚があって、ブッダが生まれたときの石の像がある。相当古くてよく解らない。母親のマヤの像もあるが、ほとんどのっぺりしていて金箔が貼って有った。なんとその右隣には、日本のだれかの寄贈による誕生仏が置いて有った。近くにはチベット寺など2つ程の寺院と小さな集落があるだけだ。仏教国日本なら、たちまち観光化され、ぶっだ饅頭、ぶっだ煎餅と御土産屋さんがひしめき、聖地の観も何処へやらだろう。タバコ屋ほどの銀行で換金。僕たちの出した100$札を2人だけの行員が、いやと言うほどひっくりかえし調べていた。(現金の換金は時間がかかる)

 ルンビニーからの帰りのバスを待つ凄い人だかり。しかし何故か車掌さんは僕たちをピックアップ、席に座らせてくれました。バスにはもうこれ以上人が乗れないほどのり、更に屋根の上にも横にもぶら下がりながら人が乗りました。確実にお金を払う御客を優先してくれたようだ。

 5月6日 いよいよインドへ。国境の町スリナウまでバスで行き、てくてく歩き、ここが国境か?と思われるほど簡単なオフィスで手続き。インド側に着くと、早速出てきたのが、闇両替やコーラの押売、人だかりが凄くて、最悪の気分。ここからバスで2時間半、鉄道のある町ゴーラクプルへ着く。ロッジに落ち着き、インドルピーを換金しに町を歩く。ここで初めて、マンゴージュースの売店を見つけ、いただく。ドロッとしていて味が濃くて甘くて香り高く・・・ものすごいおいしさ!し・あ・わ・せ。さとうきびのジュースもなかなかでした。

 ラクナウまでの切符の予約に行くが、ヒンディ語だけの表示で、ちんぷんかんぷん。凄い混雑、つっけんどんの駅員、当日券を買わされ払い戻し、今日は切符が買えなかった。作戦練り直しだ!

 豪華にホテルYAKで夕食。チキンカレー、エッグカレーを食べた。ご飯もふっくら、とてもおいしかった。とにかく{凄い}の形容詞が多く付くインドだ!

 

 

第11話 インドの病気はインドの薬で

 

 5月7日 天井扇で冷えたのか、腹具合いが悪い。ゴーラクプルから2時間ほどバスに乗り、クシナガルへ。ここはブッダの入滅された処。バス停からは3qバスもリキシャも無いのでひどい暑さの中トボトボ歩きだす。ルンビニーよりここは何も無い。乾いた道がだらだらと一本原野野中に続くだけだ。ブッディストミュージアムに立ち寄り、建造中の日本の寺院を横目に目的地へ。喉はカラカラめまいがする。大きな菩提樹のある塚の横に小さなほったて小屋があり、そこには腰布だけのサドゥがいた。彼は僕たちを手招きして、缶の中からなにやら白いかけらを出して、一つづつ手渡してくれた。口に含むとなんと、キャラメルのような甘くておいしい味。喉の渇きがとれてきた。サドゥのおじいさんありがとう!彼は小屋の入口に座って厚さが20pもある教典を読みだした。見たところ彼の持ち物はこれだけのようだ。2・3人、村の人か弟子か、それを聞いていた。

 菩提樹の裏に回ると、素焼の動物や小さなおもちゃの様な木のベッドが置いてあり、お線香が焚かれてある。『ああ、ここが亡くなった所なんだ!』何も無く荒涼とした、こんな寂しい土地で静かに目を閉じたなんて・・・そう思うとなんだか可愛そうな気持ちがいっぱいに湧いてきた。遥か昔に死んだブッダと言う人がとても身近で愛しい人に思えてきた。『しばらくここに座っていよう』風が菩提樹の葉をさーっと揺らしていく。『サドゥのおじいさんも、ブッダの事が好きなんだろうなー』この小さな塚の先に、ブッダの骨を埋めたと言う煉瓦で積んだ小高い塚があった。

 ゴーラクプルに戻り、再び駅で今夜11時のラクナウまでの切符を求めるが無いと言われる。むりやりインド式に乗るしかなさそうだ。

 5月8日 5時30汽車の中で日の出を迎える。通路で座り込みながらの夜行でかなり疲れたうえに下痢気味だ。7時、ラクナウに着く。近くのロッジに飛び込み休む。裕子に今夜の夜行のハルドワール行きの切符を買いに行ってもらう。僕は熱も出てきて寝たきりだ。裕子は悪戦苦闘、3時間もかかって切符を手にいれた。

 5月9日 8時30裕子が必死に車掌に頼み込み、寝台でハルドワールに着く。駅近くのホテルに落ち着く。ラクナウよりも幾らか涼しい。しかし体調はひどく、裕子も移動でかなり疲れたようだ。

 5月10日 熱と下痢止まらず1日寝ている。裕子は果物を買いに2度ほど外に行く。

 5月11日 熱と下痢が治まったが、ふらふら。
5月12日 裕子が下痢になる。5日前にちょっとすりむいた指の傷がひどく膿だしてきた。インドの菌は強いのだろう。ヨーチンを買って付けたら、幾らか良いようだ。

 5月13日 朝は二人ともお腹が痛むようだったが、幾らか動けそうなので観光にでた。ここはヒンドゥ教の聖地で、川には沐浴する沢山の姿がみられる。高い山にはケーブルカーがあり、乗って行くと頂上には神様が奉られて有った。色粉や油でギラギラと飾られていて、日本人好みの神様ではない。
  5月14日 8時30発のバスでリシュケシへ行く。巡礼宿を見つけ、そこに落ち着く。二人とも疲れている。瓶底眼鏡の叔父さんが部屋の前をウロウロするのがうるさい。宿代は11Reと安い。

 5月15日 リシュケシはビートルズも訪れた聖地、また始まった下痢を圧してアシュラムへ向かった。船で川を渡るとお土産屋もあり、観光地のようだ。青空床屋が有ったのでやってもらう。(4Re)川で頭を洗っていると、沐浴中のインド人が体全部入れろと、促す。とても冷たい水だ。  川には沐浴するサドゥ(巡礼修行僧)をよく見かける。ある年老いたサドゥが静かに川につかり、教典を読む。彼の持ち物は、水をくむ空き缶とずた袋だけ。インドでは今でもある程度生きたら、自分の持っている財産家族全てを捨てて、残された時間を巡礼の旅に出る。それが理想の姿とされているのだ。川辺に座ったサドゥの後ろ姿は静かで平和で、隣に座って、一緒に川の流れを見ていたくなるような気持ちがして来た。              

 5月16日 シムラーに行くためにハルドワールに戻る。熱が出て下痢も始まった。同じホテルに入り、寝込む。

 5月17日 体力が限界にきた。裕子の肩につかまりながら近くの開業医に行く。家の軒先でやっていて、利き腕を骨折してる頼りない医者だ。処方箋を書いてもらい薬屋へ買いに行き、飲み方を教えてもらう。診察料10Re、薬12Re。ミルクはだめ、リンゴとブドウだけなら食べても良いとの事。大粒の薬4種類も飲む。果してその日の午後には症状も治まり、物を食べるとそれがぐんぐん力になるようだった。日本から持って行った薬は効かなかったのに、やはり場に従えと言う事か。  

 

 

第12話 何とも度派手なインド文化

 

 5月18日 6時 凄いボリュームの音楽で目が覚める。ここでは毎朝、音楽やお経が聞こえて来る。10日も続いた下痢も治まったようだ。昨日の医者に診断書を書いてもらいに行くと10Re又とられた。見てると、インド人の患者からはせいぜいとって3Re程なのに!『具合いが良くなったのだからまぁいいか』

 のんびり映画でも楽しもう、と街に出た。映画館の前はインド風スナック売りや客でにぎわっていた。[MAHAN]と言う映画をやっていたが、一言で言って支離滅裂。1本の映画の中にミュージカル有り、喜劇悲劇有り、派手で、その展開には付いて行けない面白さが有る。後半2度も停電があり、こりゃあかん!しかしインドの人はかなり楽しんでいるようで、手拍子足拍子、いい場面では拍手もにぎやか、停電の抗議もやんやと、足を踏みならし、その時間を興じているようだった。

 ホテルへの帰り道で又びっくり。ガァーガーと割れた大きな音楽が聞こえたと思ったら、何かのグループが、象を先頭にらくだや、派手に飾った神様と共に大行列だった。何を意図するものかは解らないが、列の最後の舞台車では団長らしき人が気持ち良さそうに歌っていた。日本の街なかでカラオケ行進でもしたら楽しいだろうなぁ。しかし何ともブーブーガーガーの雑音にしか聞こえない音楽だった。

 5月19日 6時シムラー行きバスに乗る。12時間余りのバスの旅だ。ほとんどが砂利道で、右へ左への峠道が続く。休憩にバスを留めることがあるが、トイレがなく、裕子はかなり困ったようだ。裕子の話では、インドの婦人は、広くサリーの裾を広げて用を足すらしく、ズボンの裕子は隠しようも無く我慢の連続だった。途中飲んだ、アップルジュースのおいしかった事。売れずにいたのか、発酵して、りんご酒になっていたのだ。パンクもしたりやっとの事でシムラーに着いたときは、雨と霧の夕暮れだった。

 シムラーは英国統治時代、夏の間首都として利用され、イギリス人の避暑地として栄え、山の尾根にぎっしりとホテルや教会、レストランなど並び、しゃれたにぎやかな街だ。標高2206m.

 メインストリートは、インドの金持ちが一堂に集まった感じで実に凄い。何とか見つけたホテルも60Reと今までで最高の値だった。洗練されたインド料理にもありつけ、美しい夜景は値千金だ。

 5月20日 街を歩くと、様々な店にインドの贅沢品が並んでいる。シルク、カシミア等の布製品は見ているだけでうっとりしてしまう。エレガントなインドの貴婦人が美しいサリーを風になびかせて歩く道。残念ながら我々には滞在費がもたない。安宿を探してみたが、何処も百Reはざらで、今居るところが1番安いようだ。ここには3泊だけにして、ヒマラヤの裾野のマナリーへの切符を即早予約した。
 5月21日 とても冷え込む。はがきを書いたり、絵を描いたりと午前中を過ごす。郵便局、銀行へ行き、ピザやホットドックを片手に見て歩き。日中もかなり肌寒く、思わずすてきなマフラーやカシミアに手が伸びたが、懐を考えてあきらめた。小さな遊園地をみつけ観覧車に乗る。直径は小さいが、そのスピードの早いこと、何分と無く回り続けて楽しくも疲れてしまった。

 疲れると言えば、インド人の視線も凄い。みんなにとって日本人も珍しいのだろう、よく視線を感じるのだが、こちらが気が付いてインド人を見ても、いっこうに視線を反らすことがなく、じろじろと見続けるのだ。2〜3m程の距離でそれをやられると辛いものがある。日本の中の外人さんの気持ちも解ろうと言うものだ。

 5月22日 またしても12時間ほどのバスの旅だ。天気は悪く、ときどき降る雨の中、悪路を走り続けた。午後には氷河の谷の絶壁の道が続いた。100m以上のほとんど垂直の岩をぎりぎり車が通れる程けづっただけの所を、対向車があるとバックしたり、無理に路肩を行く恐ろしい道だ。家ほどもある岩がはるか下の斜面にごろごろしていて、川の流れは早く、水量もかなりある。その間バスはほとんど止まらず、息を抜く間も無く、よくぞ生きてたどり着けたと思わずにはいられない旅だった。マナリーでは雨の中、引かれるままにゲストハウスに行き、ほっとひと息入れることが出来た。

 

 

第13話 祭にさそわれて

 

 5月23日 久しぶりに晴れた朝。夜とても寒かったが、陽が出て来るととてもよい気候だ。空気がおそろしく澄んでいて、真っ青な空が美しい。びっくりしたのは回りには白く雪をかぶった険しい山が立ちはだかっていた事だ。だけど、ここAMBIKAゲストハウスの庭先には小川も流れていて、林檎の木にはまだ小さい実がなっていて、とてものどかな雰囲気、のんびりできそうだ。

 9時半 村の散策に出る。人種的にはカラフルな服を身につけた山岳系の民族とチベッタンが多い。そこに観光客としてのインド人が幾らか居る程度なので、気が楽だ。シムラーで見つけた手編の靴下がなんとどこにも売っている。まだ生まれる予定もない赤んぼ用の小さな物を含めて、思わず3足衝動買いしてしまった。村のはずれでバスの中であったインド人に出会い、彼の管理している家に案内されチャイとビスケットをご馳走になる。○○大学の○○氏を知っているとか、かなりの日本びいきの様だ。明日は近くで祭があり案内したいと言うので、半信半疑ではあったが約束をした。夕食はネパール以来、久しぶりにチベット料理の店でモモ(ぎょうざ)とかトゥクパ(うどん)をたっぷり頂いた。とてもおいしくて幸せな気分だ。

 5月24日 町外れにパン屋さんを発見しイギリスパンのような形のビッグブレッド(3Re)で朝食。卵、玉葱、紅茶で頂く。実においしいパンだった。8時半、僕だけバシシントの温泉へ行く。寺の境内の沐浴場が温泉になっていて、あまりきれいとは言えないものの、石の彫刻や青い空の天井に囲まれ、久しぶりの湯船に気分は良かったのだが・・・小学生の遠足なのだろうか? 20人ほど子供が入ってきて、たちまちの内にプールのごとくの振舞いで温泉は見事に濁ってしまった。 一方、宿で休んでいた裕子の元にはゴビンダさん(昨日のインド人)が訪ね来ていた。ペラペラの英語光線にいささか参った風の裕子ではあったが、彼は公務員で、会計の仕事をしていると言う事だけは解読していた。そしてバスのチケットを買って、遅い僕を待っていた。
11時半、バスはナガルへ向けて出発した。バスの中は超満員。座っている男の膝の上に、きれいなクルビドレスを着た娘さん達がはずかしげも無く座り、バスの屋根にも、後ろのバンパーにも、とにかく引っかかりそうな処には全部人がくっついている。1時間で無事ナガルに着き、まず彼の友人の家に行った。7,8人の着飾った娘さんや婦人が出迎え、又、スカートのような衣装を着けた男達の姿もあった。暫しの会話の後、裕子はクル民族の衣装を着せてもらうことになった。1枚の布をピン1本で体に巻き付けてしまい、スカーフ風の布で頭に縛ってかぶせると、クルの娘が出来てしまった。記念写真を撮ると昼食に誘われた。豆類のおかずや赤飯風の色づけされたご飯、辛いけどポテトとカリフラワーが入ったカレーはおふくろの味と言ったところで、とてもおいしかった。

 みんなで寺のある山に登る。とてつも無くカラフルな人混みの中を銀の仮面が9つ程付いたみこしが幾つかやって来た。太鼓やホルンの様ならっぱの楽隊も大きな音を出す。広場ではスカートの男達が千鳥足ながら手をつないで踊っている。祭は最高潮だ。

 帰りにゴビンダさんの同郷の知人宅でミルクの濃いチャイとビスケットを頂く。路線バスは見つからず、仕方なく貸切りのツアーバスに無理矢理頼み込み乗せてもらった。バスの中は金持ちのインド人ばかり。もちろん、冷たい視線を浴びました。

 5月25日 朝下痢。変わった物いっぱい食べたからなぁー。午前中は絵はがきを描いたりのんびり過ごす。午後は同宿の日本人伊藤氏、福田女氏、それにオランダの姉妹と共にタンカ(マンダラ)描きのタシさんの処へ行く。タシさんにチャイを頂きながら絵の書き方見方を聞き、近くの寺院の見学にも案内してもらった。五体投地で祈りをしたり、マニ車(御経の書いてある筒状の車)を回すチベット人の姿があった。

 

 

第14話 売り買いは楽しい

 

 5月26日 天気もよく気持ち良く、ひとり散歩に出た。壁のようなヒマラヤの山々が白くまぶしい。近くの山のふもとのハディンバ寺に着く。寺の欄間や柱のところにはミトゥナ像(男女混合像)が彫られてあった。そこに昔からあったのだろう、まったく違和感もなく、日本で言えば道祖人にでも当たるのか・・・針葉樹に囲まれ、苔むした境内は、まるで日本の神社にでもいるような気分にしてくれて落ち着く。

 帰り道で小さな土産屋に寄ったら古いコインが置いてあった。分厚い銅のコインで、ヒンディ語の浮き彫りがしてある。どう見ても古そうで、ひとつずつの大きさ、文字ともに違うのが魅力的だった。いくらかと聞くと5Reだと言う。(1Re=35円)遊び心で手持ちの日本のコインを出し、交換しようと言うと、一個に付き20円ならOKと言うことになり、5個交換した。白く光る50円や百円玉はいらないと言うからおかしい。あとでデリーの博物館で偶然見つけたら、十五世紀前後のコインとわかりびっくり! 本物かなぁ?

 さて、今日はマナリー最後の日。同宿の日本人とディナーパーティーを開く事になった。パン、野菜、チキンやヨーグルト、そしてインド唯一のビール「イーグルビール」を買ってきて、さっそくサラダやチキンスープをつくり乾杯した。日本人好みの味付けの料理は最高!(素材がいいのか?)ビールもうまい! 食べては語り、いい夜だった。

 5月27日 6時発ダラムシャーラー行きのバスに乗る。経由地のマンディに10時に着く。しかし、ここで車の修理だといって荷物を屋根に積んだままバスは何処かへ消えてしまった。何の連絡も無いまま4時間も足止め。荷物が無い人は後便に乗って行ってしまった。再出発の時には白人の3人とインド人3人が居るだけだった。途中の街で長髪の運転手に交代したが、これが凄いスピードですっ飛んで行く。危険なピンチヒッターで寝てもいられなかった。

 8時15分 ダウン・ダラムシャーラーにつく。へとへとの腹ぺこ。客引きに連れられるままホテルに行くが、二軒は満室、一軒は凄く高い。結局、自分達で20Reの部屋を探し、荷物を置くとレストランに飛び込んだ。寝たのは11時過ぎになってしまった。

 5月28日 6時半起床 大きなドーナツ状のチベッタンブレッドと紅茶で朝食。散歩に出ると、雪山はすぐそこだが、日の当たるところは実に暑い。手焼きのビスケット屋を見つけ、ココナッツビスケット(20P)とエッグビスケット(30P)を買う。これがまた凄くうまい。1Re=百P(パイサ) ホテルに戻ると、マネージャーが部屋にきて荷物の中から目ぼしい物を見つけては「売れ売れ」としつこい。折りたたみの傘や時計、寝袋と値段を言ってはみたが折り合わない。しかし4徳のナイフが百Reで売れてしまった。日本円では九百円だったので二千円はもうかった事になる。ウッシッシ 替わりに5Reのインドのナイフを買った。

 12時発のバスで10q先のアップ・ダラムシャーラーに行く。中国の弾圧を逃れインドに定住したチベット人の心のささえ、ラマ教の法王ダライラマが住む山の小さな街だ。街中はエンジ色の袈裟をかけた子供から老人まで、沢山の僧がいる。街角では曼陀羅を前に信者に説教している。バス停近くに宿をとり、チベット料理を食べ歩く。食べることが何より楽しい。

 5月29日 マカロニをゆでて朝食。ダライラマの住居を見ようと、山道を歩いた。山には猿がいてにぎやかだ。不案内でそれらしい建物もあるが確信もなく帰る。標高は千七百メートル、小雨がぱらつき寒くなる。街でホットチョコレートを飲み温まる。

 昼はフライドモモ、チョウチョウを腹いっぱい食べ昼寝をした。夕方改めて、ダライラマの家を目指すと、手にすすきを持った僧たちが沢山降りて来る。聞くとダライラマは留守のようだ。八百屋でりんごを買って帰る。4個で5Re。大きくてとてもおいしかった。

 5月30日 右足の付け根の筋を違えたのか、ひどく痛い。そろりそろりと外に出て、チベット寺を見学した。そして、先日の物売りの味を占めた僕たちは押売を始めた。Tシャツは20Reのチベットミラーと交換、ガスストーブと鍋を40Reで処分した。しかし、あとで考えると、チベッタンは堅実なので少々たたかれた感がした。とにかくここは小さな街で、ぐるぐると見て回っては食べたり昼寝をして過ごすしかない。りんごやプラムもおいしい。

 5月31日 足の具合いは良くなった。YAKレストランにてサンサクを食べる。(幅が3pもある、ひもかわのうどんの様なもの)うまい!

 ダウンに降りる。デリー行きの切符も手にいれ、荷物をレストランに預けて街をぶらつく。日本人男性とドイツ人女性のカップルと出会い話が弾む。ビスケットやチベット料理の事・・・つきる所やはり食べ物の話。男の人はもう10年も日本に帰っておらず、日本語がたどたどしく「アッチャー」とばかりあいずちを打つ。(アッチャーとはインドの言葉で、そうそう、はい、なるほどとかの意味でよく使う)Mrアッチャー氏達とは、一ヶ月半先の帰りの飛行機で偶然会うこととなる。

 一時間もかけて作るスペシャルモモなどチベット料理を堪能し、5時の夜行バスでデリーへと向かう。

 第15話  インドは暑い!

 

 6月1日 朝7時、デリー着。リキシャをつかまえ、安宿の多いバハールガンジへと向かう。人が良さそうなリキシャマンだなぁと思っていたら、自分の知ってるホテルばかり連れて行き、そのどれもが高くて話にならない。「高い!もっと安い宿に連れて行け!」の注文に、35Reでバス付のベッドも良く、まかないも良さそうなホテルに案内された。何処でもそうだが、リキシャが客を連れて行くとホテルや土産屋からお礼がもらえる仕組みで、できるだけ高いところに連れて行きたがる様だ。9時半、さすがに夜行のバスで疲れていたので、昼寝を始めた。

 午後1時、目が覚める。ひどい暑さだ。ビスケットとりんごをかじる。外は地獄のようなので部屋で地図を見たり出費の計算や予定の整理をした。3時半、まだまだ暑い。何とは無しに体温計を見ると三十七度一分だった。振って水銀を下げても目の前でぐんぐん上がる。インドでは気温は体温計で計ると丁度よい様だ。

 4時、街の中心コンノート広場へでかける。熱風の中、銀行を探す。地図の位置と違うので探すのに苦労した。まずは銀行で換金。そして、マンゴジュース、バナナジュース、アップルジュース、と手辺り次第に飲んだ。そのどれもが百%にグッド。たまらなくおいしい。夕食はレストランにてチキンカレー、シシカバブーを食べた。これもうまかった。

 さて夜であるが、これがひどい熱帯夜。私はかつて長崎でひどい熱帯夜にあった事があったが、そんなものとは比べられぬ暑さだ。暑いので二人裸で寝る。窓を開けるとドライヤーの先からでるような熱風が襲うので、閉め切るしかない。天井扇もいくらかの助けにはなる。仕方なく考えたのが、シーツを水で濡らしそれをかけて寝ることだった。初めは水を絞っていたが、それがすぐ乾くことに気づき、絞らずにバサーッと掛けた。気持ちいい。しかし、それも1時間ほどで乾く。最終的にはベッドを水でびしょびしょにして寝たのだ。んん!インドは暑い!

 6月2日 6時半、鳥がいっぱい鳴き出した。日差しはもうひどく暑い。いったい昼はどうなるのやら心配だ。パンとビスケットで朝食。

 8時、コンノートへでかける。明日は観光バスでデリーを見学しようと予約を取った。ひと月先のパキスタン航空の帰りの便の予約もいれ、バングラデッシュ航空の予約もいれた。オフィスの女性は何とも美人で、優雅なサリーをまとい、つい見とれてしまった。

 さてデリーには地下街がある。それもエアコンが効いている。通称エアコンマーケット。新宿の地下街以上の規模だ。外は三十七度三分。外には出たくない。4時間もぶらぶらとウインドショッピングしてしまった。

 今日もジュースを4杯飲んだ。水も街中ではスタンドで売っていて5パイサ。これも5杯ほど飲んだが冷たくておいしい。大きな口を開けると、窓からじょうろの様なもので水を飲ましてくれる公営の水売り場もあって、おもしろい。僕も飲ましてもらったが、インド人のように続けて息を切らさずに飲むのには練習が必要のようだ。

 昨夜と同じく水浸しベッドで寝た。

 6月3日 近くで焼く丸パンで朝食。8時半、観光バスのピックアップポイントに行く。待てどもバスは来ない。10時過ぎても来ないので、予約店に行き叔父さんに文句を言うと、乗れ!とオートリキシャを走らせた。バスのガイドミスとの事だった。振り落とされそうな運転におびえながらも風が心地良かった。振り回されるインドに僕たちもだいぶ慣れっ子になっているようだ。しかし、こんなので追いかけて間に合うのかしら?それが不思議と間に合い、バスを無理やり止めて乗せてくれた。

 最初の観光地は七十三mの高い石の塔のクタブミナール。4世紀の建造物でコーランの文字の彫刻が周囲に施されていて見事だ。次は16世紀の王様の墓、フマユーン。イスラム様式で玉葱状の屋根の中の大空間はとても美しい。イギリスの支配下で凱旋門に似せて作られたインド門。ヒンディの礼拝者も多いシャクティ・テンプル。午前はあっと言う間に過ぎ、御昼はインド人と共にマサラやプラブを食べる。観光客と言っても外国の人はいない。ほとんどが、インドのおのぼりさんだ。

 午後はあのマハトマ・ガンジーの墓陵と記念館から見学。飾り気のない墓には沢山の花が添えられていて、今でも人々の心の中で生きつづけるインドの父への思いが伝わってくる。記念館でガンジーの業績と生きざまを見るにつけ、僕たちもいつしか涙をさそわれるほどの感慨を受けたのであった。大きな愛がそこにあった。最後に17世紀、ムガル王朝時代のキラー城を見学。大理石の透かし彫りや、金や銀、鏡を使った細工が壁や天井に施され、みごとだった。城の外では陳腐な人体浮遊術のショーなどやっていて笑いを誘った。ここでバスとも別れぶらぶらと帰る。1日ではあったが、観光旅行もいいものだと思った。

 

 

 第16話 学生さんごめんなさい                              

 6月4日 9時バングラディッシュ航空のオフィスへ予約確認に行く。しかし、あの優雅なサリーの女性(前号参照)はまったくデタラメな月日を予約していた。『阿呆!!』とばかりどなりつけ、予約をしなおしてもらった。「きれいなだけの受付はいらん!」

 さて、家には1週間に1度ハガキを書いてはいたが一方通行。そこで家族には何かの連絡がしたい時にはと郵便局止めの連絡法を教えていた。中央郵便局へ行くと裕子のお母さんからしっかり便りがきていた。「こちらは皆な元気、旅を楽しんで下さい」と、書いて有るだけだが海を越えて来た久しぶりの日本語、うれしかった。

 「新婚旅行だろ、いいねえ」とニヤニヤして、ちょっとエッチなリキシャに乗せてもらいながら博物館へ向かう。こうだろ、ああだろと一人でジェスチャーして楽しんでる。気前良く20パイサまけてくれた。博物館では美しい細密画が印象的で日本画にも通ずる遠近法で描かれたものだ。例のマナリーで手に入れたコインは14世紀頃のものと確認できた。館内はクーラーがきいているのを幸い、昼寝までしてしまった。

 ホテルへの帰り道で2人の若いインド人が呼び止めた。ふたりは学生で、今度ヒマラヤに行くそうで、もし寝袋を持っていたら譲って欲しいとの事なのだ。「僕の寝袋は羽毛の高級品でゆずりたくない」ともったいつけたら、「いくらなら売るか?」ときた。「三百Reだ」とふっかけた。後で見に行くと去って行った。ほんとはだいぶ使い込んだ品物で3級品。まして僕たちの旅はこれからは熱い所ばかり。内心はいくらでもいいから手放したいのだが・・・夕食から帰ると学生が待っていた。ものを見せると半信半疑。「羽毛で温かで軽い」を連発する私。悩んでる学生にわざと小さなほころびを見せて、「250(約九千円)にするよ」と、出たらニコニコして金を出した。『しめしめ・・・』元の値段が1万円程度だから、大儲けというとこか。『学生さん、ごめんなさい!凍死しなければいいけど・・・』明日は丁度よくデリーともおさらばだ。

 6月5日 4時起床 夜明けのオレンジ色の太陽の中オールドデリー駅に向かう。通称ピンクシティ・エクスプレス。2等車両に乗り込むとすぐに席もみつかった。席は広く扇風機もある。今までで最良の汽車の旅だ。駅には素焼のコップに入れてくれるチャイ売りが来る。これがおいしい。インド人はこのコップをバンバン割ってしまう。景色は殺風景な連続だ。

 11時ジャイプル着。デリーから300Kmの宮殿や古い建築が多く残る町で、タール砂漠の入口に位置する。駅を降りるとリキシャマンの引きにあう。その中で日本語の書いてある手帳を見せるバブという名のリキシャマンを選び安ホテルを案内させた。手帳には世界各国の人の感想やサインが書いてあって、それを見せては信用を得ていたようだ。町では路上でのスイカ売りが多い。いくつものスイカに三角の穴が開いていて、どうしてなのかと思いながらひとつ買おうとバブさんを止めた。バブさんはすぐに察して物売りの親父と交渉を始めた。「テスト、テスト」と言って、なんと味見にスイカをナイフで三角に切り抜き食べさせてくれた。とてもおいしかったのでそれを買ったのだが、あのいくつもの穴あきだらけのスイカから察するに、味見だけで逃げる人が多いようだ。

 少し狭くて汚い宿だが、1日30Reの処3日間60Reで交渉成立。荷を下ろす。   60Re=2100円

 

 

第17話 バブさんの観光案内

 

 6月6日 未明より下痢の連続。リキシャのバブさんが市内観光に誘いにきたが、今日は中止。タール砂漠の入口の街へ行く切符の予約に裕子と行ってもらう。果物も買ってきてもらったが、バブさんに交渉してもらうとスイカも1Reで買えると裕子は喜んでいた。僕はお腹の具合いをみて、りんごとかバナナなど果物だけ食べて過ごす。飲み水は沸かして水筒に入れ、ぬれタオルを巻いておくと冷たくなっておいしい。果物も同じように冷たくして食べた。

 夕食はダルスープ(豆スープ)、ベジタブル・カツレツ(コロッケ)を少し食べ、日本から持ってきたとろろこんぶを食べた。夜8時、気温36.6度。体温37度

 6月7日 7時半起床、平熱。9時、バブさんが迎えにきた。チャイとラッシー(ヨーグルトドリンク)をおごってくれて、おしゃべりしてから観光に出発。

 ジャイプルは一七二八年に王ジャイ・スィン2世によって造られた街で、旧市街は7つの門を持つ城壁にぐるっと囲まれている。プルは「都市」の意味がある。王様の名前をつけた街と言うことだ。

 サンティ・モルジェヌ:美しい建築物。中はギャラリーになっていて、たくさんの美しいイスラム、ムガール時代の細密画が展示されていた。

 シティパレス:王様ジャイ・スィン2世の居たお城。まさに豪華けんらん。床、天井どこを見ても美しい装飾が施されていて、ため息の連続だ。真っ赤なターバンを巻いた背の高い護衛兵がいて雰囲気も最高。

 ジャンタル・マンタル:ジャイ・スィン2世の作ったインド最大の天文所。巨大な陽時計や星や月の観測に利用した建築物のある広場になっている。まるで遊園地のようだ。建築物はどれも大理石を利用していて、美しい。 ハーワ・マハール(風の宮殿):見上げると青い空にコーラルの壁が美しい。宮廷の女達がそこから街をながめたと言う飾りの美しいテラスがたくさんついている。壁のように通りに建っていた。

 高級なレストランでリッチに昼食。とは言ってもふたりで33(約千二百円)。クーラーが効いていて外にしばらく出たくなかった。宝石店や布地屋に寄ってから、またバブのおごりでチャイとお菓子をいただく。 バブさんには1日30でいろいろ案内してもらっていたが、インドでは高給になるのだろう。にこにこバイバイ!でした。

 6月8日 バブさんの家に招待される。子供がたくさん居て、にぎやかだ。僕が彼の奥さんに「ナマステ」と挨拶したらそっぽを向かれてしまった。彼らは回教徒だったのだ。あわてて「アサラームマライクゥン」と言いなおした。僕らには見ただけではヒンディかイスラムかはわからない。良く見ると奥さんも二人は居るようだった。土間になってる家の中にはデコレーションケーキか未来都市のようなメッカの絵が飾られてある。真っ暗な部屋の奥では御昼の用意をしているようだ。近所をぶらぶら歩き、また宝石屋に連れて行かれ時間をだいぶつぶしてしまった。バブさんもいい人だがリベートをだいぶ当てにしているようだ。

 さて、近所で紹介される度「メーラー・ナーム・たじま・ヘイ」(私の名前はたじまです)と言うと驚かれる。「私もタジマールだ!」と。イスラムにもたじまさんは多いらしい。(そうそうあのタジマハールもあるぞ!)

 2時頃バブさんの家にもどり昼食。なんと家族は食べずにきちんと待ってた。あれこれ進められるまま、おいしくご馳走になった。「もうじゅうぶん」と言うと、バブさんのお許しが出て、お鍋に群がった。家族みんなだいぶお腹をへらしていたのだろう。バブさんの威厳が感じられもした。バブ家の皆さんありがとう!

 帰るときに砂嵐がおそった。いっぺんに雲がおおい、強風が起こり空が薄赤く染まり、別世界のようだった。 バブさんと別れ、夜行の汽車に乗る。寝台で落ち着いていると、コンダクター(車掌)が、違うと言う。どうもこの車両はレディスの寝台らしい。怒る頭を押ししずめ、何とか車掌にチップを渡し、寝台を都合してもらった。『まったく駅員は当てにならん!』      
  いったい何時だったろうか、もめ事のようだ。どなり声で外を見ると寝台の取り合いをしてる。僕の寝台におはちが回ったら大変なので、そっと見ていた。しばらくどなり合ってもめていたが、先に寝台に居る人がとうとう銃を持ち出し追い払った。カッカしてるその人の勢いで何かなければ・・・と不安な一時だった。治安の割合良いインドでも銃を見ると恐ろしい。過去にもあった宗教がらみの争いはもっと恐ろしい。くわばら、くわばら

 汽車でのすったもんだの中、ラーマさんと言う中流階級?のインド人と知り合った。たまたま行き先が彼の家があるジョドプールだったので、「遊びに来い」と言うことになった。落ち着けぬ夜汽車の旅の夜は更けた。

 

 

第18話 ラーマさんちにホームステイ

 

 6月9日 目覚めてからの1時間、車窓からの風景はほとんど砂の平野だ。いくらか集落が現れ、街になるとジョドプールの駅だった。6時半、ラーマさんに連れられ、オートリキシャに乗り彼の家へ行く。ちょっとした住宅街で世田谷か杉並の観がある。玄関が開くとぽちゃっとした美しい奥さん(アルカさん)が出てきた。聞けば新婚ホヤホヤ。4人で楽しく、おいしいブレックファストをいただいた。手作りのカスタードプリンは特にグッドでした。貸し家だが間取りはキッチンと6畳ほどのダイニング、広いリビング、8畳ほどの二人のベッドルーム、ゲストルームも1室あって、それぞれにバスルームが付いている2階建ての家だ。英国の生活形態を受け継いでる。しかしさすがにテレビやカメラも持ってはいない。質素だ。とは言っても掃除、料理、雑用は二人の使用人が出入りしていて奥様家業は楽そうだ。

 二人は僕たちの持ち物に興味があるらしく、アルカさんもよく部屋にのぞきに来た。おかしなことに、衣類をまとめるために持ってきた良くあるナイロンの風呂敷がえらく気に入ってしまっったらしい。プレゼントするとスカーフにしてみたりしてニコニコ。代わりにきれいなインド綿のあまり布などを頂いた。ラーマさんは寝袋をほしがったので安く譲った。「写真も撮って!」と、着替えてきては、まじめに二人ポーズを付ける。

 ラーマさんはほんの1時間ほど会社に行ったようだったがすぐ帰ってきた。あっと言う間に昼も過ぎ、夕食は日本のてんぷらをつくってあげようと言うことになった。ラーマさんのバイクに乗り買い物にでかけた。じゃがいも、なす、たまねぎ、ヤギ肉がそろった。ヒンズー教は牛、豚は食べないのだ。トマトケチャップとソースでたれを作って食べたらなかなかの好評。そこにラーマさんのお兄さんも遊びに来た。席を屋上に移しビールも買ってきてもらい楽しい宴会となった。夜は屋上にベッドを運んでくれて星を見ながらのオープンベッド。ロマンチックな夜でした。

 6月10日 涼しく快適に眠れた。日の出前の空のなんと美しいことか!朝食後、アルカさんに教えられた名所めぐりに出かけた。ツーリストオフィスで地図をもらうと、さすが外には待ってましたとばかりリキシャマン!1日35Reでいいと言うオートリキシャに乗る。まずは小山の上にある城へ。

 フォート(城)は立派な城壁で囲まれていて、中は豪華絢爛なマハラジャの生活を彷彿とさせる部屋が続く。金銀宝石をふんだんに使い、細かい細工もこれでもかと言う感じ。外の光を受けてきらめくモザイク調のステンドグラス。天井を見上げると海の底のような感じさえするガラス玉の群れ。夜のろうそくの光を受けてきらめく星の様な天井を王様は眺めて寝たのでしょうか。慣れ慣れしいガイドが写真を撮るたびに、裕子の肩に手を掛けたのが玉に傷。

 総大理石のアスワンターラ邸。リスもいたマンドレ公園。そして5つ星に輝く、王女の城だったウマッドバーバン・パレス・ホテル。インテリアも最高にすてきで、よれよれの僕たちの姿で良く入れてくれたと思うほどだった。久々にレストランで上品に食事をした。

 街にもどると、例のごとくリキシャマンは「35Reじゃたんない!」などと言い出したが、相手にせず背を向けた。

 夕方はアルカさんの父や叔父さん、兄弟も集まりティー・パーティーとなる。アメリカの人と文通してる妹もいて、英語の手紙を書いてあげたり、日本語を教えたり、楽しく過ごす。夕食時はさらに興に乗って日本の歌を歌ったり踊ったりと盛り上がった。明日の誘いに答え、屋上のベッドに入ったのは12時近かった。

 6月11日 夜の1時半ごろ、突然の砂嵐。ものの10分で雷雨となり、恐ろしいほどの突風。みんなを起こし、寝室の引越しをする騒ぎがあった。体じゅう砂だらけになってしまった。

 そんなこんなで遅い朝食。今日でお別れと言うことで、その後アルカさんは裕子に赤い、いっちょうらのサリーを着せてくれることとなった。ひたいにティカを付けたらなんとインド美人に!(馬子にも衣装か?)サリーは少しお腹が見えるが、そこがまたいい!アルカさんも青のサリーを着て「はいポーズ」

 3時にはアルカさんの叔父さんの家へ行き、自家製のローズ・ジュースを頂きながら庭で雑談をした。家は持ち家、車も持っているお金持ちだ。ニュウトリノと言うおいしいお肉のような野菜の入ったカレーと炊き込みごはんをいただた。おいしい夕食だった。駅まで送ってもらいみんなとお別れ。「写真送ってね!あの時のは3枚お願いね!」と、アルカさんはしっかり者だ。充実してたけど引っ張り回されたり、慣れぬ英語もだいぶ使ってとても疲れた。夜行列車の窓から夜のジョドプールにお別れしたのでした。汽車は更に砂漠の街ジャイサルメールへと向うのであった。

 

 

第19話 砂嵐はシネマのごとく

 

 6月12日 朝8時、砂漠の中の終着駅ジャイサルメールに着く。もうこの先は砂漠だけの街だ。町外れの駅からは乗合ジープで街へ向かう。当てにしていたエアコンの付いたバンガローは150Reと高いので他を探す事にした。照りつける太陽はさすがに砂漠の物、白くまぶしい。ラクダが街の中のあちこちにいる。シンドバッドの出てきそうな街中を歩き、城に近く風通しもよい20Reの宿を見つけた。

 10時、ひとり街へ散歩に出かける。カラフルな刺繍の付いたラクダの革の靴を売っている店に顔を出しては値を聞き楽しんだ。マンゴウを1s(4Re)とビスケット、ラッシーを1杯飲んで帰る。ここのラッシーは緑がかったクリーム色で、上に浮いた脂がうまかった。暑い昼過ぎは昼寝をしていたが、3時頃何か外の急変に驚き起きる。「砂嵐だ!」すごい風と共に隙間から砂が吹き付ける。その窓の隙間から入る光の筋が砂ぼこりに浮かびオレンジ色だ。部屋の中はオレンジ色に染まってしまった。目を細めて外を見るとそこもオレンジ色の別世界。人も建物も、まるで映画のワンシーンのようだ。ものの数分ですさまじい雷雨となる。しかし大粒の雨の中、子供たちは雨に打たれて楽しんでいた。雷も遠くなり、辺りが静まり返り、涼しくなった。停電の部屋の中はすごい砂ぼこり。気が付くと口の中もざらざらだ。砂漠の気象の激しさを痛感した。

 夕食は城の中のレストランへ食べに行く。ここのホテルはオフシーズンで泊り客がひとりもいない状況。普段100Reの部屋を15Reにするから泊まってくれと頼まれた。明日の約束をして帰る。夜は寒いくらいでよく眠れた。
 6月13日 朝食後、城の中のホテル「ジャイサルキャッスル」へ移る。部屋は城壁の一番上にあり、すばらしい眺望だ。果てしなく砂漠の地平線が見える。

 10時、観光に出かける。まずはこの街の大切な水瓶「ガディサルタンク」へ。この水は緑色をしていて、いろんな動物が水飲みしている。そんな水を女の人が頭に大きな瓶を乗せて来ては汲んで行く。『本当に飲めるのかしら?』『もしや、あのラッシーの緑色はこの水の色!?・・・』

 街なかは土産屋の子供に連れられて、石の彫刻のすばらしい建築を見て歩く。どれもが貴族の私邸で、その豪華さには驚く。大理石やこの辺で採れる硬い砂岩の透かし彫りだ。

 午後はのんびり昼寝したり、葉書を書いたりする。僕達だけの夕食を賄い終えるとマネージャー以下スタッフは映画に行ってしまった。日の入りを見ていたが、地平線に入る前に見えなくなってしまった。どこからか山羊の帰る群れが見えた。静かな夜を迎えた。

 6月14日 6時起床 鳥の声、山羊の声。ビスケットとマンゴウを食べる。黒山羊がいつもの方角へぱらぱらと歩いて行くのが見える。

 土産屋の子供、オンパスカル君に案内してもらい王様の御墓バダバークへ行く。新聞配達に使うようなごついレンタサイクルでいざ!6qの砂漠行だ。飛び出す鳥や刺のあるサボテンをムシャムシャらくだが食べるのを眺めてはペダルをこいだ。うねうねと続く道もすいすいと目的地に着いた。まるで海のような砂漠に小さな村が現れて、そこに立派な墓陵があった。墓守をするかのように野生の孔雀がいた。お妃の墓石は小さな貝の化石が入っている石でできていて、その石はこの辺のどこにでもある石のようだ。帰り道では裕子が気分が悪くなり「ゼイゼイ、ハアハア」と地獄の日照り道だった。日陰は無い、喉も乾く。砂漠は侮れない。午後は休息。

 5時半、夕食後荷造り。ホテル代を精算してジープに乗り駅へ行く。城を美しいシルエットにして、夕陽がまんまるに沈んだ。寝台もすぐに見つかり砂漠の夜行が走り出した。

 6月15日 8時 ジョドプールに着く。荷物を預けて、リフレッシュルーム(駅の施設)のレストランで朝食。ウエイティングルームではシャワーも浴びて休息した。夜行のアグラ行きに乗るまで昼間はここに留まる。街なかも少し歩き、昼食は金のドアの高級なレストランで、めちゃくちゃ食べる。ロースト・マトンは実にうまかった。エアコンも効いていたのでコーヒーまで3時間は楽しんだ。ウエイティングルームで2時間昼寝して、また金のレストランへ。ミルクとアイスティーで2時間ねばった。ウエイティングルームは男女が別になっているが、裕子は「男の子はでて行け!」と言われ悔しがっていた。インドの女は皆サリーで着飾っているのに、裕子は髪も短く、ズボンを履いていたからだ。塩っぽい水、発酵してたスイカともおさらばして、列車に乗り込んだ。今度は24時間の汽車の長旅だ。

 

 

第20話 ムガル建築の宝庫

 

 6月16日 朝7時 汽車の中での起床。駅の物売りからチャイを1杯買い、ビスケットとマンゴウで朝食。チャイは素焼の器に入っていて、飲み終わると皆ガチャンと捨ててしまう。しかし捨ててしまうには余りにももったいない器だ。駅によってその色・形も違っていてコレクションしたくなってしまう。あるインド人が「インドはすごいんだ。コップも使い捨てだ」と自慢していた。
 12時 バンディクにてトーストとオムレツの出前駅弁。しかし、ここで2時間も足止め。これでも特急かと怒ってしまう。裕子が出歩いてマンゴウをまた1s仕入れてきた。食べることしか脳が無い僕たちだ。すると前に座っていたターバンのおじさんが「これはパロットマンゴウだ。おいしくない!ダシャーリーマンゴウと取り替えてきなさい!」インドには何十種とマンゴウの種類がある。言われるままに裕子は取り替えてきた。それが実にうまい。ターバンのインド人も『どうだ!』と言わんばかりだ。

 退屈な列車の中、よく見かける旅の楽団でも来ればいいのだが・・・もっとも座席指定の列車の中はすいていて横になったりくつろいだりできた。そこによくいる無賃乗車の人が入れ替わり来るが、そのターバンのインド人が「ここは10Re余計に払ってんだ!あっちへいけ!」と追い払ってくれるので僕たちも楽だった。

 夜8時 アグラ・フォト駅着 客引きに引っ張られるままにホテルへ行ってみた。35Reの部屋を10%ディスカウント。夕食においしいマトンフライを食べ、すぐベッドにもぐった。

 6月17日 6時半起床 3種類のマンゴウで食べくらべの朝食。更にレストランにて軽食をとる。

 このホテル専属のリキシャマン、スンダル氏におがみ倒されて1日観光に出ることになった。あっちこっちと土産屋に連れて行かれながらも城壁が立派なフォートに着く。英国に持ち去られたところもあるが、大理石の彫刻がすばらしい。一五六五年完成のムガルの権力の象徴的建造物だ。城内の樹木にはリスもいて心なごんだ。遠く見えるタージマハールも美しい。(ムガル帝国は一五二六〜一八五八年。一四九八年にはヴァスコ・ダ・ガマが来航、一六〇〇年にはイギリスが東インド会社)

 砂嵐の中スンダルはペダルをこぎ、ムガル時代の墓陵イテマッドに着く。ここの大理石のモザイク技術が後のタージに受け継がれた程の美しさだ。芝生や石の通路をイスラムの人になりきって裸足で見学した。

 そしてタージマハール。インドの美の象徴だけの事はある。一六五三年完成のこの墓陵は、時の皇帝が愛した妃の死を悲しんで、天文学的な費用をかけて造った建築物だ。棺も世界から集められた宝石がちりばめられていた。インド各地、外国からも観光客がかなりいた。こんないい加減なインドに何故こんな美しい建築が出来るのか不思議だ。まったく不思議の国だ。

 ホテルへの帰りにネパール人のリキシャマンに出会い、話がはずむ。インドにあって、日本人の顔にそっくりのネパール人に出会うとほっとしてしまう。『明日は彼に案内してもらおう』

 6月18日 朝食後バスに乗って時の首都ファーテーブ・スィークリーへ。1574年、時の帝国が首都をここに建設したが、水不足で14年後あっという間にゴーストタウンになってしまった。壮大な建築郡が手着かずのまま残っていて不思議な感じだ。

 バスに乗って帰ると、ネパール人のドヴィンドラとスンダルの知合いのナーラヤンが待っていた。僕たちはドヴィンドラにお願いしたいのだが・・・彼は出稼ぎの身。「肩身が狭くなるので、インド人の言うことを聞いてやってください」との事だ。二人にひとりづつ乗せてもらい観光に出た。

 途中猛暑の中パンクのアクシデントもあったが、建設中の寺院を見学。造り始めてから既に八十六年建っていると言う。6ヶ月もかかって大理石でバラの花の透かし彫りをしている人。3ヶ月も向こうとこっちで鋸を引き、大理石の柱を切っている人。監督に聞くと、あと百年は完成までにかかるとの事。でもその未完成の造りを見てもそのすばらしさに感心してしまう。「私のおじいさんのおじいさんからここで鋸を引いているよ」と、気の長い、しかし実に贅沢な、豊かな何かを感じた。『いいものは時間をかけて作られる』のだ。

 夕食はドヴィンドラの夢や悩み、ネパールの事など聞きながら、彼の手作りをご馳走になった。アグラは暑いし仲間はいないし稼いだら二度とここへは来ないそうだ。リキシャで1日働いてよくて30Re、駄目なら0。リキシャのリース代は親方に1日5Re払うそうだ。観光のメッカだからそれにたかるものも多いし、政府機関の販売所などと言って宝石やシルクなどを不正に高く売っている店も多い。心優しい彼がここで暮らすのには無理があると言うことだ。

 6月19日 午前中は「俺にも稼がせろ!」とばかりナーラヤンが来た。土産屋にぐるぐる回り別れた。しかし何で僕たちがインド人の気を使わなくちゃいけないの?
 11時 2等の自由席でジャンシー行きの汽車に乗る。余りにぎゅうぎゅうなので1等の通路にいたら、車掌に行けと言われたが、1Reあげて(わいろ?)30分ほど使わせてもらった。

 3時 ジャンシー着。くたくたのはらぺこ。ウォータークーラー付のほてるに泊まる。55Reと高いが居間と寝室が広く、何より涼しいのがうれしい。贅沢した。

 

 

第21話 炎天下のエロチック寺院

 

 6月20日 5時起床 霧が吹き付けるウォータークーラーのせいで、荷物も部屋もじとっと湿っぽい。朝食をとり駅まで行き、6時発のバスに乗る。幾つもの退屈な丘を越えてバスはでこぼこ道を進んだ。

 11時半 カジュラホに着く。何人ものホテルの引き込みに立ち往生。観光客は僕ら2人だけなのだ。今は暑いだけのオフシーズン。選んだのは一番安い7Re(7×25円=百七十五円)でシャワー付きのアップサーラホテル。昨日は55Reのホテルだったのに、何という価格差か?市場の角のレストランにてターリーを食べ昼寝をする。太陽は真上。ものすごい暑さだ。シャワーを何度も浴びながら過ごした。

 5時 陽も沈みそうになったので散歩に出る。遠くにたくさんの寺院のシルエットが見える。宿が安い分だけうまいものを喰うか・・・と言うことになり、ホテルアショークに行く。レストランには僕らだけだった。冷たく、おいしい水にほっとした。Vgカレー、カツレツなど味も良かった。おいしいとは言えライスだけで10Reだった。帰りに市場でマンゴウを買っていると話しかける青年がいて結局チャイをおごってもらった。どうも近くにダイアモンドの加工所があるらしい。それを見せて自分のもうけの種にしたいようだ。話もほどほどに宿に帰った。

 今夜も暑い。ホテルの外では何か騒がしくお祭りをしている。ばかでかい花火の音、はでな音楽、クリスマスが来たような沢山のランプの灯。聞けば結婚式のお祭りだと言うことだ。素朴で楽しい祝い事にほのぼのとしながらも、この暑さと音!今夜も良く眠れそうにない。

 6月21日 5時半 日の出とともに起床。さっそく西の寺院群へ観光に出かける。きれいな公園になっている中を歩きながら寺院を見ることが出来る。寺院はまるで冷却盤のあるエンジンの様な格好でそびえ立っていた。大きなもので四〇mの高さがある。その石の柱や外壁の至るところにミトナと呼ばれる彫刻が彫り巡らされていた。ミトナとは男女交合像だ。そのポーズは既婚者の僕らをも驚かせるものだ。しかし明るく健康的なその顔や姿態に、ましてこの太陽の元、赤裸々に表現されたその美しさはなんとすごいものだろう。隠したり、否定したりと暗いイメージにせず、その大らかさとエネルギーに脱帽の僕らだった。

 8時 レンタサイクルを借り、東の寺院群へ行く。こちらはジャイナ教と言う仏教に近い教えの寺院だが、ミトナが仏陀の回りにいて日本では考えられない雰囲気だ。暑さでくらくらする。裕子はさすがに疲れたらしい。宿に帰りシャワーを浴びてひと眠り。

 お昼はカジュラホ1番のチャンデラホテルに行く。こちらはずっとはやっている様で、随所にきれいな制服のボーイがいて案内をしてくれる立派なホテルだ。空調もよく効いている。フルコースでゆっくり3時間もかけて腹いっぱい食べた。二人で68Reなり。(=千七百円) 夜は腹も減らず、近くの店でラッシーを飲みながら夕涼みを楽しんだ。

 6月22日 5時半起床 マンゴウを食べる。ひとりで東と南の寺院へ観光に出た。自転車でひどい砂利道を走らせて遠くのジャイナ教の寺院へ行った。とても質の高い彫刻が見られた。

 9時 裕子を後ろに乗せて西の寺院の公園に行く。木陰でごろ寝しながらくつろいだ。自由で豊かな気分だ。博物館を見学して帰る。気温は四〇度を越えていた。

 1時半 昼寝後再び裕子を後ろに乗せてチャンデラホテルへ!高給ホテルに乗り付ける格好ではないことに思わず苦笑してしまう。熱風吹き荒れる外とは違い中は楽園だ。またしても腹いっぱい食べ、ロビーでハガキ書きなどしながら半日過ごしてしまった。

 6時になっても気温はo度。外をぶらつくとあのチャイをおごってくれた青年と出会う。「うちへこい!」と彼。振り回されるのが嫌なので「ノー」と言うと「あのチャイ代を返せ!」ときた。カモにならないとなると手の平を返したような態度。つっぱねて早々に帰った。

 6月23日 6時起床 快晴 マンゴウとビスケットで朝食。千年の昔に栄えた王国の最盛期に造られた寺院の数々。その姿を遠く眺めながらチャイを飲む。もう少しのどかなこの村とすばらしい彫刻に触れていたい気持。しかし、時間どうり8時半にサトナ行きのバスが来た。熱い風景のカジュラホを後にした。

 12時 サトナ着。リキシャで駅まで行くとベナレス行きの列車に飛び乗った。どの車両も席は無く、通路も人で一杯だ。インド人はあっちへ行けと追い払う。疲れも手伝ってか、裕子がとうとう泣き出した。するとインド人もびっくり!今度はどうぞどうぞと席をつめてくれるではないか!マンゴウを分けてくれる人まで出てきた。インド人って本当はいい人が多いのか?

 夜中の11時 ベナレス駅着。駅にある休憩室のドミトリーを利用してすぐに寝た。ベッドも心地よく、シャワーも冷たい水で石鹸もちゃんと置いてあった。ひとり10Reだがこれなら安い。ベナレスは有名なヒンドゥーの聖地。旅は残すところあと3週間。旅もいよいよ峠だ。

 

 

第22話 インド屈指の聖地ヴァラナシ(ベナレス)

 

 6月24日 6時起床 夜の熱さに5〜6度シャワーを浴びた。インドの6月は雨季に入る月で、熱い時期なのだ。ルームサービスのチャイを飲み、のんびり今日の計画を練った。朝食は駅のレストランでセット(5Re=百二十五円)を頼んだがなかなかいける。

 9時 観光に出る前に明日の切符を買いに窓口へ行く。観光案内所に行くと係の男が「今はすごい混雑だから私が買ってあげよう。」と親切。背の高い彼に着いて行くと、何の事はない、行列の1番前まで割り込んで行ってしまった。おつりと切符を渡してもらい「ありがとー」。『楽したなぁー』と喜んで人混みを抜けた。しかし手元の切符を見ると計算が合わない。10Re少ない。1日あたり50Reで旅する僕たちには見逃せない。観光案内所に戻りさっきの男を捕まえる。はじめ男はしらをきっていたが、僕が腕をつかみ「駅長の処へこい」と怒鳴ると、男も回りを気にしてか、そっと10Re返してくれた。

 リキシャをつかまえ、聖河ガンガー(ガンジス川)の流れと沐浴の風景を見に出かける。乗る時は3Reと言ったのに降りる時には「ひとり3Re、二人で6Reよこせ」ときた。まったく、こんな事の連続だ。もちろん3Reで済ます。・・・めげてはいけない!

 ガート(沐浴場)の入口には喜捨を待つ人が両側にずらっと座っている。テーブルに1パイサの山を作って喜捨のための両替をする人もいる。裕福なインド人はそこで両替して、片っ端から恵んで行く。ガートでは男はみな腰布ひとつで水につかっている。何か唱えながら頭の先まで水につけたり口の中まで洗う人もいる。赤子を抱く母親もサリーのまま水につかっている。水は濁っていて汚い。薄く油まで浮いている。しかしヒィンディにとっては聖なる川、聖なる水なのだ。あまりの熱さも手伝ってか、僕も思わずパンツひとつになって子供達と一緒に水遊びしてしまった。川向こうの中州では屍を焼く黒い煙が幾筋も上がっていた。

 ホテルのレストランで久々に中華を食べる。午後はツアーのバスに乗り観光する。対岸に見えたラームナガル城と博物館。そして仏陀がはじめて説法した地サールナート。ここには中国やチベット、ビルマ等の仏教国の寺院があちこちに建てられている。大きな仏塔にはチベットの信者がお参りしていた。しかし日本の東大寺のような観光での賑わいは無い。とても静かなのが、かえって心にしみる。遥か遠く日本の心の起源のひとつにたどり着いた感がした。

 今夜も快適な駅の宿泊所に泊まる。リュックの中の体温計は四〇度を示していた。

 6月25日 5時半起床 昨夜は夜どうし駅前で楽団が騒いでいた。朝から蒸し暑い。朝食後、ガートをぶらつく。結婚シーズンなのか花婿花嫁を取り囲み幾組かの集団がある。道では何かのデモか、騒がしく行列が行く。マンゴゥジュースやラッシーを飲み歩く。

 4時 ガヤ行きの急行列車を待つ。仏陀が悟りを開いた地ブッダガヤが目的地だ。待てども汽車はなかなか来ない。聞くと掲示板に反して隣のホームから目的の汽車が時刻どうり出てしまったらしい。「ちきしょー!」と怒りがあふれ、次第に力が抜けた。途方に暮れる。しかし3時間後に別の汽車が来るとの事、ほっとしてホームで待つことにする。さて、僕らが椅子に座っている処のすぐ横で、ぼろぎれをかぶって寝ている人がいた。蝿も飛んできてうるさい。すると4人の青年がきて寝ている人を取り囲んだ。よく見たら死体だった。ひとりの青年が皆に怒鳴られたり殴られたりしながら、荷物のように引きずって行った。ヒィンディにとって、ヴァラナシで死ぬことが何よりの望みと聞く。死期を感じた男がやっとの事でこの駅までやって来たのだろう。しかし貧しい人は荼毘に付す薪も少なく生焼けのまま川に流される。

 ガヤには夜遅く着く。ほんの少しの決断の遅れで最後の駅の宿泊室を他の家族にとられてしまった。裕子にぶーぶー言われ真夜中の駅を出る。安宿とだけ指示してリキシャに連れられて行く。蚊がうるさくベッドの硬いレストハウスに泊まる。

 

 

第23話 ほとけの心よありがとう

 

 6月26日 6時起床 表通りに面しているので朝のうるさいこと!ベッドの硬さで体も痛い。曇り空なので幾分涼しいのがうれしい。駅で朝食を済ませる。ブッダガヤに向かう前に次の切符を買いに行く。窓口は例のごとくヒンディ語の表示なのでちんぷんかんぷん。エンクワイアリー(窓口案内)が無いので嫌な予感の観光案内所へ行く。またしても「私が買ってやろう!」ときた。「教えたんだから5Reくれ!」「イヤッ、教えるのがあなたの仕事だ」とつっぱねた。

 11時半 マンゴウの昼食後、ホテルを出てリキシャでバス停まで行く。そこにタンガー(馬車)の乗合が来た。二人で5Reとバスより高いが風情があるので乗り込んだ。僕らの隣には新婚の2人がいた。新婦はスカーフをばっさりかぶり顔を全然見せない。小さな村をいくつか過ぎ、のどかな風景をゆられて眺めた。なにか郷愁をさそう。

 2時にはブッダガヤに着いた。暑い中、安ホテルを探して歩き回る。裕子は長旅の疲れも出てか、「早く宿を決めてよ!」と冷たく僕に当たった。「そんな言い方ないだろ」と、しばし冷やかな空気。炎天下、遠い国の空、言い合いしていたら大変なことだ。僕も財布ばかり気にして、裕子の疲れを二の次にしていたようだ。仏のはからいか二人は何かを感じ、共に深ーく反省した。夫婦助け合いが大切だ。旅(仏)は夫婦の絆を強くしてくれた。おかげで、ひと部屋6Reの宿を見つけた。近くにはなつかしのモモ(チベッタンぎょうざ)も食べれる食堂があった。その名もBUDHIレストラン。モモは前日予約との事。チョウチョウ(焼きうどん)を食べる。懐かしい味にほっとした。満腹でさらに円満とあいなる。

 五十二mの大塔を見に行く。四大仏跡を見てきたが、ここが一番ブッダを大切に奉られている様で立派だ。今からおよそ二千五百年前に生まれたゴータマ・シッダール。解脱の道を求めて、世俗の生活を捨て苦行の末、ここの大きな菩提樹の木の下で覚りを得たのだ。裸足で石畳の境内にはいる。その菩提樹の下には金剛座が在り、現実の人であったブッダの面影が忍べる。(今年、仏教とヒンディの信者が衝突したとの報道があった。大丈夫だろうか?)

 外に出ると、それなりに観光客目当ての土産屋もいて日本語で話しかけてうるさい。「さかさま、さかさま」は御釈迦様の素焼の置物。「みちゅめ」は3ッ目(菩提樹のじゅずの種類らしい。ひと頃は「阿佐ヶ谷、千駄ヶ谷、ブッダガヤ」とみんな駄じゃれを言っていたらしい。ゴータマ・ラッシーショップでおいしいラッシーをいただき、一件落着の1日でした。

 6月27日 雲が厚く涼しい。レストランでパンケーキとオムレツを食べる。

 断食でやつれたブッダに乳がゆを捧げた女、スジャータの村に出かけた。枯れた川を渡る手前でおかしな日本語を話すインドの青年が着いてきて案内を始めた。人は良さそう。スジャータの塚に3人座る。向こうに前正覚山が見える。はるかに緑の畑が広がり、背の高い椰子の木が続く。美しい。どこか日本の田舎にも似ている。インドは平和な国のようだが、人々はいつも怒鳴り合っている。平気で殴ったり、口論の末ライフルを突き出す光景もあった。だけど、黙々と働く人、食堂のまかない人、水を汲む女、年老いた駅の荷物運び。餌を探す犬やヤギ、牛。木や花や風や大地。そんなもの言わぬものがとても好きになる。『幸福が彼らの上にいっぱい届くように』と裕子も僕も思った。青年とも握手をして別れた。

 帰りに大理石の小さなブッダや数珠を買う。銀行に換金に行くとストライキ中だった。

 昼食はモモを食べた。すごくおいしい。腹一杯で昼寝した。昼下がりには手紙を書いたりしてゆったり過ごす。

 6月28日 6時起床 今日も涼しい。朝食後はぶらぶら散歩に出た。大塔の近くには池があってロータス(はす)の花がきれいに咲いていた。菩提樹の葉を数枚もらい記念にした。芝生の庭で裸足になってのんびり過ごす。

 陽が出てきて暑くなる。ひとりでタイや日本の寺を見学にいった。タイの仏様はすらっとスマートで立派なものだった。建物の飾りも色も対照的な日本の寺は静かで落ち着いている。「やっぱりいいなぁ」と感じてしまう。博物館を見て帰る。

 午後にはインド人が訪ねてきた。日本の友達への手紙を書いてくれと言うことで、代筆をしてあげた。いろんな形で日本との交流があることはいいことだ。

 3時半 雨がすごく降ってきた。雨季本番か?雨を眺めながら荷物をまとめる。

 4時半タンガーにてガヤにもどる。夕食をとりG時発の汽車までのんびり過ごす。汽車は2時間も遅れてきた。乗るときの騒ぎはひどいものだった。

 

 

第24話 ホテルもレストランもピンからきりまで

 

 6月29日 7時半 トイレにたつ。少し蒸し暑い。

 9時半 寝台から起きて席に座る。窓の外は曇り空が広がっている。裕子はすでに臨席の美人のインド人姉妹と話をしている。家族旅行の帰りらしい。ビスケットとバナナで朝食。車内にはミルクたっぷりのコーヒーも売りにきた。ココナッツも売りにきたのでひとついただく。ココナッツのジュースは程良く甘く、内側の果肉は白く透き通り、とてもおいしい。

 美人姉妹のお父さんはプーリーで映画館を経営しているそうだ。姉の方は上手に英語を話すし、上流らしく大学にも通っていると言う。お菓子や果物を頂きすっかり打ち解けた。「家にも来て」と住所も教えてくれた。

 午後6時、ブバネシュワルに着く。インド人家族と別れ、リキシャに乗りとあるホテルに着く。シャワーを浴びたかったが9時にならないと水がこないとの事。がっかり。おまけに停電していて天井扇も回らない。ボーイのおじさんは僕のパンツを売ってくれと言いだしてうるさい。とんだホテルだ。

 6月30日 オーダーしていたブレックファストが来ないので外に出る。外には昨日のリキシャが待っていた。1日20Reで観光を始める。ブバネシュワルにはあのエンジンのラジエーターのような寺院がいっぱいある。マヤ遺跡にあるような神様の彫刻、唐草模様の彫られた壁面等、とても独特な雰囲気だ。遅い朝食はリキシャに教えられ駅の近くのレストラン・ベニスインへ行った。エアコンも効いている高級な店だ。ひとつづつ注文する品がとてもおいしいのでたらふく食べてしまった。焼き立てのナン(パン)、深みのある味わいのマダールマサーラ、カレー。コーヒーが実においしかった。

 午後4時 ホテルに戻ったが、いまだに停電中。

 6時半 夕食も同じベニスインに行き、フルコースを楽しんだ。コンディエンスミルク味の液状のお菓子が美味だった。のんびりと楽しんだ。9時半にホテルに戻ったがいまだに断水。水が来たのは11時近くだった。やっとリフレッシュでき、ぐっすりと眠ることが出来た。さすがにこのシャンカル・インターナショナル・ホテルに泊まっているのは僕たちだけだ。

 7月1日 7時半 さっそくリキシャをつかまえてベニスインへ朝食をとりに行く。ウッタパンと言うものを頼んだら御好み焼き風のパンで、これもなかなかおいしかった。

 6q先のウダヤギリ、カンダギリという遺跡に向かう。リキシャは二人を乗せて必死にペダルをこぐ。彼は1枚のランニングシャツを着ているが、ほとんど着てないのと同じくらいボロボロだ。痩せた体は、しかしとても力強く、パーンをかむ口は真っ赤で、時々ぺっと吐く唾が血へどの様ですごい。暑さの中かわいそうなくらいだ。この遺跡は紀元前二百年ほど前の古いもので、数々の動物の彫刻が面白かった。はるかに続く水田風景はどこか日本に似ていてやさしい。

 12時 御昼はやはりベニスインへ。おいしいとなったらメニュウを食べ尽くす意気込みである。満腹満腹!

 1時45分発のバスでプーリーへ。4時には海の見える街プーリーに着く。リキシャに連れられて安ホテルへ。目の前が海だ。2日で50Reにしてもらう。近くに日本食を食べさせるレストランもあるとの事で行ってみる。ちょうど改装で昨日まで閉まっていたとの事。今日はお祝いと言うことで、いもの煮付けをただで頂けた。バブリーという10才ほどのまかないの少年はとてもいい子で話がはずむ。ここはレストランと言ってもベニスインとは格段の差がある。道にオープンな煉瓦積みの簡素な建物である。

 宿に帰り灯を付けると虫が集まってきた。それを食べに、ヤモリや蛙が集まってきた。海鳴り、その向こうに稲光が窓から見えてとても美しい。

 7月2日 6時起床 海辺を散歩する。貝も無く、ただただ砂漠のように続く砂浜だ。数人の漁師とであった。朝食を済ませ、街中へ行く。7月6日のカルカッタ行きのチケットを予約して、郵便局へ行く。日本への便りも最後だ。バザールを歩いたが、この辺のインド人は僕らを余りジロジロと見ないし、しつこくない。のんびりしていて落ち着く。

 ある生地屋さんで、かすりのサリーのとても良いのがあったが手を出せない。ここへ来るときにバスの中でみた女性のサリーがえらく気に入っていたので似たのを探していたが・・・サリーは実はとても高い。五百Re以上はするのだ。平凡なものでも百Reはする。やはり女性の着物にはどこの国でもお金がかかるようだ。

 パイナップルジュースやビスケットを食べながら歩いていると恐ろしいほどのスコール。しばし雨宿りをする。道はあっという間に川となりゴミを流してしまう。道でポカラ(5月2日)で会った日本の女性と出会い懐かしく話をした(だけど、連れの男の人が違っていたぞ!)。

 午後3時 宿で昼寝をしたりのんびり過ごす。重い空に海鳴。雨季に入ったらしい。風は涼しい。

 

 

第25話 海の街プーリーと物売り

 

 7月3日 宿の食事はいまいち、おいしくないので、歩いて駅まで朝食をとりに行く。その帰りにはマンゴウも1s買う(3Re)。宿でそのマンゴウにかぶりついていると、昨日来たコーラル売りのおじさんが来た。色々交渉して、お土産にいくつか買ってあげた。

 10時半 次ぎに来たるは布屋さん。おじさんの勧める一番高い布はまったくセンスに合わない。「一番良くない品だ」と言う布が素朴で安く(5Re)気に入った。僕らの持っていたビニールクロスでプリントの布も交換できた。その布をターバンにしたりして楽しんでいると、次は「ありがーと、ありがーと」と物売りが来た。日本人観光客ずれした物売りかと思っていたら、アリゲータ(わに)製の財布売りだった。大小ひとつずつ買って35。お土産がいっぺんに増えてしまった。

 11時半 近くのキサナドゥレストランに行く。メニューも多く安い。とても人の良いマスターや、小さなまかないの子供が2人、忙しく働いている。おいしい。  

 バザールへ行きクルタ(インドシャツ)用の布を2m買う。「1日で作る」とニコニコ受け合ってくれた道端のテーラーに布を預けてきた。そこで、ビニールクロスと交換した布は4Reの安物だとわかる・・・!リキシャで帰り、波の荒い海で少し海水浴を楽しんだ。   
  夕方、また物売りが来たがもう買う意欲が無い。キサナドゥに夕食をとりに行く。店はすごくはやっている。スエーデンから来たと言うレディの隣に席をとった。彼女は指圧を仕事にしていて、インドではヨガとメディテーション(瞑想術)を勉強しているとの事。インドには色々なことを求めて旅する人が多いが、僕らはすでに何を求めているのか忘れてしまった。ただ、この空気と人の臭いがたまらなくいい。すっかり食事と会話を楽しんだ。マスターやまかないのクリシュナ(6才)も「ありがと、おやすみ」と見送ってくれた。

 7月4日 裕子は体調が良くないのでひとりキサナドゥへ朝食をとりに行く。その後はアルプラッタ(芋の入ったパン)、ダル(豆)、ローティ(パン)等のスナックを食べながら、ぶらぶらと街を散歩しただけで昼寝をむさぼった。裕子は風邪の様なので薬を飲んで1日休んでいた。なんとは無しの1日、こんな日はちょっと郷愁を感じる。疲れも出てきたのか?

 7月5日 6時起床 窓を開けてびっくり。海には百以上もの帆掛船が繰り出しているではないか。どんな魚がとれるのか?今夜は夕食に魚が食べたくなった。

 朝食後、バスターミナルへ行き太陽寺院で有名なコナラク行きのバスに乗り込んだ。しかし人が集まらず1時間しても出発する気配が無い。仕方なく乗合のジープで出発。約1時間でコナラクには着いたのだが、何と途中で乗れるだけ、と言うよりもたかれるだけの人が乗り、コナラクで人数を数えたらs人の人が乗っていたのにはびっくりした。ギネスかサーカスかの騒ぎだった。

 コナラクはとても小さな村で、そこにとても立派な石造の太陽寺院があった。彫刻が外壁にびっしりと施され、動きもしない寺を一見動くように石の車輪が着いていてまるで大きな屋台(山車)の様だ。教えの館でもある寺院を曵いてその教えを広めるようにとの願いなのだろう。

 博物館を見学し、昼食をとり、クッションのよいミニバスで帰る。ちなみにジープは板の様な座席でバスよりも料金が高いのだ。昨日のテーラーに寄ると布はまったくの手付かず!あきらめて持ち帰ることにした。街中は祭があるらしく屋台(山車)の骨組が作られていて、なにか慌ただしい。電卓を売ってくれと言う学生を振り切りリキシャにて宿へ戻る。

 夕凪の海辺を散歩していると、またしてもバッグ売りやピクチャー売りが来てうるさい。よく買う日本人がいるような情報でも飛びかっているのだろうか?

 キサナドゥに行くとマスターがニコニコと、手にロブスターを掲げた。生きのいいのをさっそく調理してもらう。15Re(=375円)なり、と高めだが、実にうまくて、くまなく食べてしまった。残りの甲らも宿にうろつく、やせっぽちの犬にあげたら喜んでいた。大満足で二人ニコニコ。海鳴りを子守歌に、プーリー最後の夜が更けた。

 7月6日 7時起床 海には船はない。扉を開けるとすぐに痩せ犬がやって来て、朝の挨拶をした。キサナドゥに朝食をとりに行くと日本人が二人いた。長話しの末、写真家の渡辺さんと漁師村へ足を運んだ。椰子の葉と竹だけでできた貧しい家の続く村だが、人の表情は明るい。大きな木の下で休んでいるとココヤシのジュースをくれる村人がいた。どこにも自然に溶け込んだ生活がある。どうかすると風ひとつで飛ばされる家、しかし、たくましくおおらかな人々、そんな写真をとりたくて後藤さんはインドにやってきた。

 昼食後クリシュナ君とも御別れし、小林さんという日本人のいる宿を訪ねた。ドイツとフランスの女性もいて素麺やグリーンティなど頂ながらしばし談笑。しかし日本人というレッテルを感じ、なんとなく嫌だった。

 宿を例の行商達に囲まれて出る。駅では昨日の学生が電卓と時計を売れとうるさい。いざとなればインドの安時計と取り替えても良かったが、ああだこうだとあっちも値切るし、必需品の時計でもあるし振り切った。 
  18時5分発の特急は、めずらしく時間通りに出た。最後の訪問地カルカッタへ向かう。夜、横になる前に車窓から見た風景は、きらめくばかりの星空と共に、ネオンのごとく沢山の蛍が飛び交い、遥か遠く雷光が光り、まるでシネマのようだった。

第26話 病に追い立てられてカルカッタ 

 

 7月7日 5時15分カルカッタのハウラー駅に着く。時間通りだ。インドも都市部近くは時間が正確なのだろう。駅のスタンドで朝食をとり、トラム(路面電車)乗り場へ行く。安ホテル街のあるチョロンギ通り行きのトラムがなかなかつかまらず大通りをうろちょろした。人や車がごったがえし、すさまじい喧騒だ。やっとつかまえたトラムには1等席があり楽ちん。そのうえ45パイサ(約15円)で目的の博物館前まで行けた。1泊朝食付きで50Reのモダンハウスロッジに入り込む。まずは帰りのバングラデッシュ航空の予約を済ませ、カルカッタ見物へと歩き出した。          

 ハウハウと言う中華レストランで、実においしいチョウチョウライス(チャーハン)、ヌードルスープ(ラーメン)を食べた。物を買ってくれとやたらにからみ付くインド人をよそに、郵便局から古レコード屋の並ぶニューマーケット通りを歩く。英語圏のロックに負けず、ギンギラのインド音楽がにぎやかに鳴っている。そこからハンバーグ、カバブ(イスラム風焼肉)などもかぶりつきながら市場に入り込み、インドの服の上下を買った。ターバンをかぶり一生髭を切らないシーク教の人。額に色粉でティカと言うマークを付けたヒンドゥー教徒。日本人に良く似ていて、向こうから来るとついニコッとしてしまうチベット人。イスラム教やジャイナ教の人もいる。市場は人種のるつぼだ。フレッシュジュース屋の前を通り、スイートショップでラッシーや度ぎついピンクのミルクシェークを飲む。中味が砂糖水の様なシュークリームも食べた。フルーツショップで初めて見る果物を買って帰る。

 夜8時 中華レストラン「香港」で揚げワンタンやヌードル物を食べる。何とは言え食べぐいの1日であった。

 7月8日 6時 ひどい胃痛と共に下痢ピー。さも有りなんである。熱も7度5分ほどあった。朝食をとり薬を飲む。食欲はあるので食べては寝ていた。

 7月9日 5時半起床 平熱。裕子は咳が出る。キンコンカンコンと、やたらうるさい時計台の音がたまに傷だが、朝の鳥の歌は実に美しい。空気のきれいな朝の市場で梨を買い、銀行で必要なルピーを換金して来た。

 12時 熱のある裕子を置いて、楽器屋のあるモスクに続く通りに出かけた。以前からタブラが欲しかったのだ。余り商売熱心ではないマスター達に片っ端から値を聞きながら歩く。一番安く素朴な素焼の胴の太鼓を買った。モスクの近くにはそーめん屋、レーズン屋、肉ロール屋などもあり、にぎやかな所だ。乗りなれたトラムで帰る。

 帰ると裕子は高熱にうなされていた。隣部屋の人に薬をもらい飲ませた。旅の疲れも出て、インド最後の地にたどり着いて、気も抜けたのだろう。部屋は暑いがファンは回さずに寝た。

 7月10日 裕子はまだ熱がある。市場に果物類をしこたま仕入れに行く。リンゴ、プラム、バナナ、マンゴゥ、レモン、それにビスケット。レモンティをいれ、リンゴを剥いてやるとよく食べよく寝た。

 夕食はロッジで知り合った日本人の毛登氏と2人でビールのあるレストランへ行った。とにかくよく食べよく飲んだ。

 7月11日 裕子はやっと平熱になりホット束の間、自分がぐっと疲れが出て、悪寒がはしった。見ると39度近い。下痢も始まった。裕子には薬と氷を買ってきてもらい、頭を冷やした。ベッドの頭の所が水でびしょ濡れになったので、頭の方向を逆にして寝た。本当に日本に帰れるのかしら?と心配になってきた。

 夜、毛登氏が見舞いにきたが、今日もビール1本で5時間ねばったそうだ。元気だ。 

 7月12日 5時起床 さわやかな朝だ。夜中にこのロッジの真っ黒なマスターがひとりで何か怒鳴っていたので、薬物でラリパッパーなのかと思っていたら、ボーイにビールを買って来させた時に25パイサ猫ばばしていたので怒っていたのだと分かった。僕の気分も幾らか良い。

 6時 裕子が洗濯した物をテラスに干して置いたら、それをどかすインド人がいた。自分の物を広々と陽の当たるところに干していた。まったく人の事は考え無しだ。

 11時 元気も快復したので2人、昼食をとりに行く。パルカパニール(ほうれん草のカレー)やナン、ローティもおいしかった。そこでハガキを書き郵便局へ。しかし今日は祭だと言うことで休みだった。心無しかにぎやかな通りをグレープやマンゴウのジュースを飲みながら歩く。映画「ガンジー」をやっていたが満員で入れずロッジへ戻る。

 6時半 「香港」へ夕食に行く。ライススープを食べウーロン茶でさっぱり。レストランでは大抵取られる飲酒税だが、今日はなぜか取られずに済んだ。祭だからか、大人が建物の屋上で凧をあげている。夕陽が美しく街の灯の中に沈んだ。

 10時 インド最後の晩、毛登氏と共にラッシー屋へ行き最高のラッシーを飲み漁る。インドの思い出を語り合い帰る。毛登氏も同じ便で帰国の途に着くのだ。

第27話 とうとう盗られちゃった 

 

 7月13日 5時起床 今日はインドとおさらばする日だと言うのに、裕子は熱が出て下痢もして具合いが悪い。『ここで、置いてかれたら大変』と、精神力とレモンティで裕子は病気と戦った。

 8時半 同じ便で帰国の模登氏と共にタクシーに乗り込む。30で行くと言うことで3人割り勘にした。ダムダム空港へびゅんびゅん飛ばすタクシー。スピードメーターは壊れていて動いていない。ドアもガタガタと外れそうだ。思えばインドで始めてのタクシーだ。そんな中でも裕子は何とか快復してきたようだ。牛が引く荷車。荷物を頭に乗せて行く人。チャイを飲み憩う人々。窓にはインドの風景がなつかしく映る。空港に着くと運ちゃんは「荷物が多いから、あと5Reだせ」ときた。何とか2Reに負けさせて空港に入る。負けさせるのは、もう慣れっ子だ。

 バンコク行きのバングラデッシュ航空BG692便の受付はもう始まっていた。この便は1泊のダッカでの宿泊付きだ。出発までの数十分を、残りのルピーを使ってコーヒーを飲み感慨に浸った。今日は旅に出てからちょうど百日目である。病気には最後までいじめられた。何でも値段をふっかけられたし、だまされもした。おいしい果物や料理。親切にしてくれた人。けなげに働く子ども達。気候の激しさ、地形の雄大さ。カラフルな民族の個性・・・とても豊かな時間だった。

 夢心地の中、いよいよ搭乗。しかし、ボディチェックの係の人にバクシーシー(物乞い)されたのには驚いて目も覚めた。飛行機は横に5人座りの小型のジェット機だ。客も半分ほどしか乗っていない。荒れ地に点々と緑の続くインドの風景が小さくなる。『さよなら・・・』

 1時間もしないうちに、水浸しの風景が見え、バングラデッシュのダッカに着く。空港の荷物係の人までバクシーシーでうるさい。リムジンカーでホテルに着いたのは2時半。ホテルはさすがに航空会社が用意しただけの事はある立派なもので、クーラーやホットシャワーもあり、裕子もご機嫌だ。しかし、これも束の間の喜び。荷物を新めて見ると、裕子のリュックから日本円で3万円が盗られていたのだ。僕の方はボールペンが盗られていたが、現金などは身につけていたので大丈夫だった。何とも信用ならない航空会社だ。「今までこんなこと無かったのに!」

 3時半 用意された遅めの昼食を食べながら、他の日本人と荷物荒しの事が話題になった。毛登さんはリュックの口をヒモでぐるぐる巻にしていたので大丈夫。もう1組の日本人の女性の荷物も開けられていて、手紙の中まで開けられていてクシャクシャだったそうだ。

 ニュウマーケットに出て見たが閉まっている店が多く、特に興味を引くものもなかった。

 7時半 ディナー しっかりした西洋料理を頂く。毛登氏、高田氏、よう子さん達と共に遅くまで話し込む。旅の事、今後の事。皆、夢がいっぱいだ。

 7月14日 7時起床 快眠できた。朝食後は毛登氏と共に観光に出かけた。リキシャをひろいガート(沐浴所)城跡など見て歩く。聞いたところ昨日と今日と「キリスマス」の祭だと言うことで休みの店が多いようだ。

 11時半 リムジンに乗り空港へ。運ちゃんは時間が無いとばかりにすごい飛ばしかただ。トランジット客はすぐに搭乗ロビーに入れた。免税店でも何も興味を引くものもなく、残りのバングラデッシュ通貨、30タカでミルクを飲んで、慌ただしく機内へ行く。機内は相変わらずすいていた。

 2時間半後タイに着く。高田氏とよう子さんのカップルと共にタクシーにてホテルへ。プライバシーホテル1泊188バーツ。近くの定食屋で夕食をとり、マレーシアホテルのいかしたカフェでのんびりくつろいだ。バンコクはさすが進んでいて店内で「二〇〇一年宇宙の旅」のビデオを上映していた。一遍に現代にやって来たようで面食らってしまうようだ。

 7月15日 7時起床 朝食もおいしく頂き、外に出た。なまずを焼いて売っていたり、臭いのきつい出店をのぞき歩いた。どうもバンコクの郷土食は手を付けるには勇気がいる。

 11時半フロントに荷物を預けて悪名高き(?)パッポン方面へ。土産物はどれも高く面白いものは無し。くだもの屋に並ぶ数々の奇妙な果物が目に留まった。ひとつずつ買って試してみた。いやと言うくらい甘いものや香りのきついものなど、世のなか面白い味があるものだと感心した。あやしげな女の子がうろうろするカフェバーでビールを飲みくつろいだ。          

 夜9時 高田氏らと共にタクシーにて空港へ。コーヒー飲んでひと休みしていると、高田氏らとジャイサルメールで会ったと言うみち子さんとも合流。パキスタン航空の受付に行くと、あのダラムサーラで会ったアッチャーさん(のりさん)とサビーナさん。「アッチャー」とばかり手を握りしめての再会。

 飛行機は悪天候で1時間以上遅れ離陸した。

 7月16日 午後1時半 成田着 僕らとアッチャー氏カップル、みち子さんの5人はスムーズに出国。しかし高田さんの連れのよう子さんはなにやら水パイプを所持していたとの事で出てこない。仕方なく5人は電車に乗り都内へ。小刻みな時間の流れ、無表情で忙しい人の流れ、美しすぎる車内。インドとはかけ離れている。親切な車内放送にも皆で大笑いするほど、僕らも日本の文化にショックを受けた。

 盆の送り火を焚く裕子の実家で、刺身、そーめん、焼鳥、さやえんどう・・・と、日本の食事にありついた。