沢山のご参加をいただきました。会場からは様々な感想や意見も拝聴できました
![]() 講演はにぎやかにできました |
![]() 中学生の感想もよかった |
![]() 資料を基に講演する茉莉さん |
![]() 川に流れ込む人たちの絵 |
(お話の要約) 私の持っている写真は兄と身内の写真3枚で、私の写っている写真は一枚だけです。被爆したのはキノコ雲の真下です。上空580メートルで原爆は爆発したのです。 原爆は何万度と言う温度になり、地上では5〜6000度の熱です。温度は1キロメートル以内では太陽光の370倍。あっという間に人は溶けて炭になりました。中心地から2キロ以内が壊滅地帯です。その地では爆風は毎秒120メートル。この風速を圧力で見ると1平方メートルあたり7トンの圧力です。服ははぎ取られ、目は飛び出て、はらわたも飛び出る人もあり、子供の手足はちぎれるほどの爆風です。放射能は400ラドで、50%の人は死ぬ放射能です。私はその中心から1.4キロメートルのナカヒロ町の丘の向こうの母の実家にいました。この周りの家々は全て天空に持ち上げられバラバラ落ちてくる残骸でした。景色が真っ黒だったが、しだいに瓦礫の山が見えてきました。街中に炎が立ち上がり燃え出すと、市内は溶鉱炉のようで逃げ場がありません。人々は、瓦礫の下から子供を引っ張り出したりしてました。 広島には七つも川がある。向かった先は裏の川。ところが途中何百人も死んでいて道がふさがっています。仕方なく、その死体を踏み越えて歩いて行った。河原の入り口では川に向かって沢山の人が死んでいた。私たち子供6人、大人3人、合わせて9人が休めるところは1つもない。川にも隙間がないほど人が立っている。満潮になると水かさも増えてきて、あとは死体となって海に流れていきました。逃げ惑っていると雨が降ってきました。土手のくぼみに入り、トタンを見つけて屋根にしていた。だんだん雨は黒くなり、最後はコールタールのようにドロドロしてきた。ボタボタという様な雨音になった。黒い雨で真っ黒になっていました。川は黒い水に死体がいっぱい浮いていて海に流れてゆきました。母が子を抱き締めたままの死体が流れていく姿はいくつもあったのです。 実際の死者数は計り知れないと思います。土手の上に行ってみると空は真っ赤。三日三晩も燃え続けていた。 叔母はどうしたかと焼け跡に戻って探した。叔母は帰ってこない。その後すごい姿の叔母が連れてこられた。「私の子供は・・・」とばかり自分の子供達に近づくけど、子供達は怖がって逃げました。叔母は河原にあるカキ殻の山の中に吹き飛ばされて体も顔も全て傷だらけでした。血だらけのうえに黒い雨で真っ黒になっていたのでした。叔母は子供たちの姿を見た途端、三日三晩気を失って寝ていました。 「生きていることに感謝。文句は言えない」と母は言うばかり。子供が揃っているのはウチぐらいだった。薬も何もない中でウジ虫がわいて、ブンブンと蠅の音と嫌な匂い。「生き地獄とはこのことだ」と母も祖母も言っていました。水ばかり飲んでいた。水も放射能にやられていたかもしれないけれど、それを飲んでいた。3日後に、おにぎりが届いた。しかしそのおにぎりは糸を引いていた。だけど、みんな黙って食べた。死体にはハエが真っ黒になっていた。人のうめき声と蝿の音でうるさい。役所の人がガソリンで燃やす死体の臭いもひどかった。 その後の私の人生ですが、体には放射能がつきだるい、ぶらぶら病です。就職は履歴書見ただけで落とされた。銀行とかは入れない。就職できない。結婚もきない。だるくて集中力がなくて朝起きれない。マツダの下請け工場を父はやっていた。ぶらぶらしている私のことを父は母に叱っている。私は母の事も辛くて辛くてどうしようもなかった。母は被曝させて「ゴメンネ、ゴメンネ」と私に言う。広島を出たいと思った。東京の出版社にアルバイトがあると言うので行ってみた。出版社は大学卒でないと本採用にはならない。一生懸命働いた。私はフリーのライターになると目標を決めた。 さて、写真を見てください。これは被爆者の残した絵にあるものです。この絵は、肌はヤケドで垂れ下がっています。痛いので肌に当たらないように手を前にして歩いています。みんなこんな格好して歩いていたのです。この絵は瓦礫だか人だかもわからない風景です。死体を踏み越えて歩かなければ先に行けないのです。この絵は、寝かされている人に水をくださいと言われても、水をあげると死ぬからダメだと言われ、薬もなく、そのままに寝かされているのです。 母は「助けてぇ」と、材木の下敷きの人の声を聴いたそうです。その声が小さくなった。母は材木を持ち上げられない。家に火がついた。その下から「ぎゃー」と大きな声が聞こえた。思い出したくないが忘れられない。母は真っ赤なカンナの花を見ると体が震えた。花の咲いているところは遠回りして歩いた。その母も認知症になりカンナの花をぼーっと見ていました。キョウチクトウも見たくないと言っていた方もいました。 私はピースボートに乗って世界各地を回り、原爆のことを語りました。原爆を落とした乗組員の孫にも会いました。トルーマンの孫にも会いました。「過ちは二度と繰り返してはいけない」と、どこの国に行ってもヒバクシャの話をして皆さんが聴いてくださいました。原爆は正義のために使ったのだといった方には「戦争に勝つことが正義とは思いません」と、はっきり言ったら黙られました。平和は絶対に守ると約束してゆきましょう。 先進国の皆が核兵器を持っている。広島より数百倍凄い迫力のある核爆弾です。それが世界に1万個ある。1つでも間違って発射されれば、地球が崩壊です。核兵器を無くして平和な世界にしないといけない。言い続けないといけません。 勇気を出して語りました。聞いて下さるのも勇気がいります。聞いてくださって今日はありがとうございます。 |
秩父経済新聞にも掲載されました。ありがとうございました。4/29 →■小鹿野町・奈倉会館で幼児被爆者が「原爆の悲惨さ」伝える