新舟所蔵資料

新舟喜代戦死通知(昭和19年6月2日戦死)


左が生死不明通知。右が戦死通知。
この一通の通知で人の命が終わった。
遺骨などの品は無い。

奈倉会館にある出陣軍人名簿


【新舟喜代さんの戦死】
戦死の知らせ。それは「軍事秘密」と判の押された、たった一通の通知だけだったのです。
この資料をお見せ戴いた時、濱田勝己さんと私は言葉につまりました。遺骨もなく通知を受けた遺族の思いはいかばかりだったか。これを説明する文章も私には書けないと感じて居たところ、奈倉文庫新聞の第11号の1979年8月1日の「終戦から34年」という特集に喜代さんの奥さん新舟ふくさんの遺稿があったのです。ここに書き起こし再載させていただきます。
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 戦争で夫を失って   新舟ふく
 私が結婚したのは昭和十年五月で二十三才の時でした。
 当時夫(喜代)は警視庁勤務だったので結婚生活は東京でした。結婚前に夫は二回の招集を受けていたそうです。翌年には長男が生まれました。昭和十二年十月に三回目の招集を受けたため私たち母子は奈倉へ帰り、野良仕事をして働くようになりました。昭和十六年一月召集解除となり、夫は町役場に努めることになりました。昭和十七年四月長女を出産し、夫は昭和十九年五月第四回目の招集を受け、東武第十六部隊に入隊し、一ヶ月後の六月二日に「生死不明」の公報がありました。六月でも暑い日でした。
「行方不明」の通知が来、義母が受け取り「こりゃだめかな・・・」と云っていました。私はあまりのことに涙も出ず、食事ものどを通らず、夫の行方がわからないまま、十月には次女が生まれました。その年の十二月二日「戦死」の連絡を受け取り、夫は三十六才で戦死しました。
 翌二十年八月十五日の敗戦日は進駐軍にどんなことをされるかという恐怖でいっぱいでした。
 その後、畑二反余りの収入で子育てに夢中だったので、つらいとか、苦しいなどと感じる余裕はなく、再婚など考えたこともありませんでした。毎年六月二日には、夫の命日として夫を想い暮らしてきました。
 今から思えば、戦争なんて馬鹿げたものですね。平和で暮らせるのがなによりです。そう強く思います。
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