救援物資を届けに行かれた水さん(水村健治)にききました

平成23年(2011) 文庫編集委員


まず以て被災地の皆さんにはお見舞い申し上げ、多くの亡くなった方のご冥福を祈ります。
さて、水村さんと息子さんが東日本大震災被災地に救援物資を届けに行かれたとのことでしたので、現場へ行かれた様子など、貴重なお話を伺いました。
去る4月24日(日)から26日(火)にかけて気仙沼、釜石、大槌に行かれたそうです。多くの有志が支援物資を持ってきてくれたそうです。それを軽トラック一杯に積んで息子さんが運転し、長い道のりを往復しました。
お知り合いの紹介で最初に気仙沼の避難者のお世話をしている後藤さんの所に行ったそうです。気仙沼駅周辺は被害を受けておらず、いつもと変わらぬ平穏な様子でしたがトンネルを越え、気仙沼港に入ったとたんの惨状には言葉もなかったとのことです。無惨に変形した車が至る所に横倒しになったり逆さまになったり家に食い込んだりと大変な風景だったそうです。家も建材が粉々で鉄骨もひん曲げられ、神棚や家具もありとあらゆるものがうず高く、ぐちゃぐちゃに混ざり合って瓦礫と化していたそうです。その上に大きな漁船が何艘も打ち上げられていたそうです。瓦礫の中にあった汚れた写真は、そこで営まれていた生活の証を訴えているようだったそうです。
トラック一杯の物資も家々に避難している方々にお分けしたらあっという間に7割ほどはなくなったそうです。
「何もかも流されてしまったので、おおいに助かります」と大変喜んで頂きました。気仙沼での2カ所目は70人ぐらい避難しているお寺に案内してもらい物資をお届けしました。若いお坊さんにお礼の言葉を頂き瓦礫の中を後藤さん宅まで戻りました。テントで宿泊を予定していたら「テントじゃ大変だから小屋に泊まって下さい」と言って頂いたそうです。電気はまだ復旧してなかったそうです。寝袋を二枚重ねて寝ましたが大変寒い気仙沼の夜だったそうで、体育館や広いところに避難している方々はさぞや寒くて大変だろうと思ったそうです。
眠れぬ夜を過ごし、翌朝5時には瓦礫と化した港周辺を見たそうですが、生活していた町が一瞬にして無くなったその無念さを自分の深いところで掴みきるにはもっともっと時間がかかると感慨したそうです。後藤さんはみんながバラバラになってしまってコミュニティが無くなってしまったことに大変憂慮されていたとのことでした。
気仙沼から陸前高田、釜石、大槌まで延々と続く瓦礫の山。その至る所に行方不明者の捜索や瓦礫の撤去作業に自衛隊員や消防隊員の姿があったそうです。
やっとのことで第2の目的地、釜石に着き、Tシャツ3箱を受け取って頂いたそうです。水も電気も復旧していなかったそうです。その後大槌町まで行ったのですが知人の方に携帯が通じないので宿探しに遠野まで行ったそうです。しかし、宿は何処も満室で断られ暗い山路を北上へと向かい、夜8時頃、北上駅前のビジネスホテルに泊まったそうです。次の日は帰路につきましたが、帰ればいつもの日常が待っているが、被災地の方々にはこれからも続くであろう苦難を思うと感慨無量だったそうです。
支援物資を届けて下さった皆さまと、現地へ届けて下さった水村さん、ありがとうございました。そしてご苦労様でした


大きく日常とかけ離れた風景
お豆腐は被災後初めてだったそうで喜ばれたそうです。

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