奈倉山大徳稲荷大明神

小鹿野町奈倉田島幸助著

 昔々奈倉は秩父朝臣の館のあった所で、秩父郡一の豪商の軒と並べてあった宿場で、毎月二回の市場も立ち物資の取引をし、清酒の醸造の酒蔵も三軒あり、花柳の料理店や旅人宿もあり、三峯街道、宮街道、吉田街道の要路で、札所周りの巡礼宿、小川町、川越町、深谷、本庄、高崎町等から取引も繁く本店を当地に置き支店を各地に出して、貿易をする店もあった。
 鎮守妙見宮には傘鉾、屋台もあって、お祭りにはこれを引きにぎやかな繁華な所であった。
 此処に奈倉山大徳院と云うお寺があります。このお寺に奈倉山大徳稲荷大明神と申す崇かなる、稲荷様があります。この神様は京都の愛染寺というお寺から迎えて祭った神様であります。
 昔或年、大徳院の和尚さんと、奈倉の宿の大店の旦那様たち数人の方々が上方旅行を仕様ではないかと云う話がはじまり相談がきまって、伊勢奈良や京、大坂など上方の神社仏閣のお参り方々見物の旅に出かけました。
 昔は汽車も自動車もありません。草靴脚絆で振別荷物を持ち、合羽三度笠で二十日も三十日もかかる徒歩での旅行です。
 お店は若旦那にまかせて隠居旅なので、急ぐ事もなく気軽に旅をはじめたのです。
 東海道五十三次を西に上り、途中駅駅でも有名な神社やお寺を詣で、熱田神宮、伊勢神宮、奈良東大寺、春日神社、三笠山法隆寺、京都の東西本願寺、紀伊の高野山、四国の金比羅大権現等日数を重ねて旅を続けまして、帰り道は又大阪京都と来てたまたま愛染寺にお参りし、和尚様の厚い接待を受け、お宿をしていただきゆっくり旅の疲れを癒し京都見物もさせてもらいました。愛染寺をはじめ各お寺であらたかな稲荷様があり多くさんのお白狐が飼ってあったそうです。そうしてそのお白狐がよく仕込んであって、和尚さんの命ずるところによく働きお使いもする。お客様の接待まで面白く致します。宿った一同は感服の他はありません。あまりの事にほしくなりました。
 秩父の方は時々不作の事もあるので五穀の神様の稲荷様を大徳院に勧請したくなりました。一同相談して和尚さんにお願いして見る事に致しました。
 誰もご隠居の大旦那の事ですから銭金には糸目はくれません。献金も多くさんする事にして、和尚さんに相談致しました。和尚さんも大そう喜んで内の稲荷さんが関東に分神出来る事はまことに結構な事で折りを見ては此処からも坂東へ旅行も神参りも出来ますからと承知した。それではこれを稲荷の御神体として進ぜましょうと、立派な箱入りの宝珠をも下さいました。
 出立の時和尚さんが、一匹のお白狐をつれて来て、この白狐は私がよく飼いならした神様のお使いのお眷属です差上げますから可愛がって末長くお手なつけ下さいと申しました。
 一行は大そうよろこび色々と御丁寧な贈り物に厚くお礼を申し上げて愛染寺を後に御宝物と御眷属をつれて京都から東を指して東海道の旅を続けました。
 谷を越え川を渡りけわしい山や峠を越えて、幾日も幾日も白狐を道伴れに途中色々の難儀にも出会いました。
 或時は雲助に路銀を取られた事もあり、また或時は盗賊におそわれた事もあったが此の白狐が賢くて、雲助に取られた路銀の財布をいつの間にか取り返してくれた。峠の盗賊を未然に知らせてくれて、難をのがれた事もあった。又或る時は旅の人に思わぬ迷惑をかけた事もある。白狐が化けたり、旅人を化かしたり、旅人の持ち物を化かし取りだしたりした事もありました。けれども数人一行の旅行故、座興になって、行く時より帰り道は面白かったと云う。日数重ねて漸く寺に帰り着き旅の疲れを癒し、数日後寺に集まり、旅行の後始末や稲荷様を祭る相談やら致しました。その結果早速寺の本堂の南方に假殿を造り宝珠の玉を安置し正一位奈倉山大徳稲荷大明神と命名し假殿遷宮式を行って勧請したのであります。
 御神狐の棲む所は假殿の軒下に造り、毎日和尚さんが朝夕食物を運んで挙げて養いました。大徳稲荷様は毎年春、三月三日を御縁日と定めお祭りを怠る事はありません。
 神徳により村内は益々発展致しました。話によると此の神狐の知らせ弔事又は忌事の起こる時はきゃーきゃーとご慶のある時はこんこんと知らせたものだそうです。神狐は何時の頃にか居なくなったものやら詳でないが、その後野狐が多く繁殖し農作物を荒らしたり農家の家畜を害するようになったと云う。以後お寺の近くを通行する村人が時々狐にばかされ古坂下や櫻井の人々が奈倉の宿へ来て豆腐や油揚魚類などを求めて家に帰る途中どこで取られたか包みが空になっていて何もなかった事が度々、又道に迷わされて馬坂や川原をさまよって家に帰れなかった者、又里芋畠を川と間違え腰まで着物をまくり夜の明けるまでさまよって居た人もあったと云う。
 明治の御代以後は猟銃が流行し狐狸の類は全滅され文化も開けたのか狐に化かされる者もなくなった。
 大正昭和の御代になって稲荷様のお祭りに、太々神楽を奉納するようになり、よその村から頼んで来て毎年挙行し三十年も続けたが大東亜戦争に敗戦後奈倉に神楽を創設して昭和二十四年以来は奈倉山大徳神楽を奉納して盛大なお祭りをする様になりました。
 天下太平国家安泰五穀豊穣養蚕倍盛商売繁盛子孫長久を祈願するものであります。

(昭和五十年三月一日小鹿野町教育委員会「小鹿野の言い伝え昔ばなし」)
田島幸助手書き文より書き写しました。
眷属(けんぞく:お使いの者)

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