山中茉莉さん 「生きるあなたに伝えたい」

2023/10/22秩父市喫茶グレーにて

私は広島での原爆で被爆しました。当時2歳で母の実家にいました。叔母は相生橋で吹き飛ばされ傷だらけで見つかりました。叔母は十日市で野菜の配給等の仕事をしていました。8642歳の子を連れて同じ実家にいました。

私の持っている写真は兄と身内の写真3枚だけです。被爆したのはキノコ雲の真下です。上空580メートルの上で原爆は爆発したのです。

太陽は6000度だそうですが、原爆は何万度と言う温度になり、地上では56000度の熱です。あっという間に人は蒸気が出て炭になりました。中心地から2キロ以内が壊滅地帯です。その地では爆風は毎秒120メートル。温度は1キロメートル以内では太陽光の370倍。放射能は400ラドで、50%の人は死ぬ放射能です。この風速を圧力で見ると1平方メートルあたり7トンの圧力だそうで、服ははぎ取られ、目は飛び出て、内臓も飛び出る人もあり、子供の手足はもげるほどの爆風です。私はその中心から1.4キロメートルのとこにいたのです。私たちはナカヒロ町の丘の向こうの母の実家にいました。この周りの家々は全て天空に持ち上げられバラバラ落ちてくる残骸でした。景色が真っ黒だったが、しだいに瓦礫の山が見えてきました。街中に炎が立ち上がり燃え出すと、市内は溶鉱炉のようで逃げ場がありません。人々は、瓦礫の下から子供を引っ張り出したりしてました。

叔母の子供たちはヤシの木の下の乳母車に下敷きになっていました。兄は足が大火傷で後でケロイドになりました。血だらけの私を当時26歳の母はびっくりしてオドオドしていましたが、「しっかりせんか」と声をかけられ気を取り戻しました。子供たちの命は皆あった。どこかに逃げようとするが「たすけて」の怒号ばかりです。でも助けることができない。母は「こらえてつかぁさい」と離れざるをえなかった。向かった先は裏の川。ところが途中何百人も死んでいて道がふさがっています。仕方なく、その死体を踏み越えて歩いて行った。河原の入り口では川に向かって沢山の人が死んでいた。私たち子供6人、大人3人、合計9人が休めるところは1つもない。川にも隙間がないほど人が埋まっている。河原に入れない。逃げ惑って入ると雨が降ってきました。トタンを見つけて屋根にしていた。だんだん雨は黒くなり、最後はドロドロしてきた。石を投げた様な雨音になった。黒い雨で真っ黒になっていました。満潮になった時、黒い水が重い海に流れ込み死体がいっぱい浮いていて、馬や豚も大きな腹になって流れていました。母が子を抱き締めたままの死体が流れていく姿はいくつもあった。

実際の死者数は計り知れないと思います。土手の上に行ってみると空は真っ赤。三日三晩も燃えていた。

十日市の叔母はどうしたかと焼け跡に戻って探した。叔母は帰ってこない。その後すごい姿の叔母が連れてこられた。「私の子供は」とばかり訴えていたけれど、子供たちは母を怖がっていた。叔母は子供たちの姿を見た途端、三日三晩気を失って寝ていました。水で体を冷やし野宿をしていました。叔母は河原にある蛎殻の山の中に吹き飛ばされて体も顔も全て傷だらけになっていたのでした。

「生きていることに感謝。文句は言えない」と母は言うばかり。子供が揃っているのはウチぐらいだった。薬も何もない中でウジ虫がわいて、ブンブンと蠅の音と嫌な匂い。「生き地獄とはこのことだ」と母も祖母も言っていました。ナカヒロ町には野菜はあった方だけど水ばかり飲んでいた。水も放射能にやられていたかもしれないけれど、それを飲んでいた。3日後に、おにぎりが届いた。しかしそのおにぎりは糸を引いていた。だけど、みんな黙って食べた。死体にはハエが真っ黒になっていた。近所のおじいさんはウジ虫が膿を食べてくれるからと言って放置していて、いっぱいになった。子供は近所の人のウジをとってあげるのが仕事だった。人のうめき声と蝿の音でうるさい。役所の人がガソリンで燃やす死体の臭いもくさい。

五感で母と叔母は私に詳しいことを話してくれた。大抵の親は体験を隠そうとしたが、うちの両親は全て伝えてくれた。感謝です。

当日の話はこれぐらいにして私の思春期の時のお話をしましょう。

体には放射能はついています。だるい、ぶらぶら病です。就職できない。結婚できない。だるくて集中力がなくて朝起きれない。マツダの下請け工場を父はやっていた。ぶらぶらしている私のことを母に言って叱らされる。私は母の事も辛くて辛くてどうしようもなかった。仕方なく外に出た。東京の出版社にアルバイトがあると言うので行ってみた。出版社は大学卒でないと本採用にならない。一生懸命働いた。編集室で皆が仕事していてお茶を出して、沢山のタバコの吸い殻や紙屑を片付けていました。局長が編集室の係りに入れてくれた。局長も被爆者だった。「人生いっぱい大変なことある。でもいいことあるよ。元気を出して頑張ろう。そしてフリーランスになりなさい。大学にも行きなさい。できるかな?」私は「はいやります」と答えた。一生懸命やっていると社員にならないかと言ってくれる。しかし私はフリーターになると目標を決めた。フリーなら自分のことを見られる。フリーランスのままで、仕事をつかむために社員にはならなかった。管理職になると自分の管理ができなくなって大変だからだ。こんな人生を送って来ました。

コロナ期の定期検診で発色細胞腫とわかった。いずれやってくるだろうと思っていた。悪性だった。1千万人に1人の珍しい病気だった。実はみんなが癌で亡くなっていたので私は遅いなぁと思っていた位だ。でも克服できると信じていた。自分の人生のことを書きとめておこうと思った。良い本として、ちゃんと本当のことを書こうと思った。それがこのピースガーデンと言う本です。日本中の図書館にあるといいなと思って書いたものが、なんと図書館賞を貰いました。以上が私の人生です。

写真を見てください。

これは被爆者の残した絵にあるものです。肌はヤケドで垂れ下がっています。痛いので肌に当たらないように手を前にして歩いています。みんなこんな格好して歩いていたのです。

先進国の皆が核兵器を持っている。広島より数百倍凄い迫力のある核爆弾です。それが世界に1万個ある。1つでも誤作動で発射されれば、地球が崩壊です。核兵器を無くして平和な世界にしないといけない。言い続けないといけません。ちょっとだけ隣の人と話すだけでも、つながっているだけでも平和に報いることができると思います。無関心にならないでください。勇気を出して語りました。聞いて下さるのも勇気がいります。聞いてくださって今日はありがとうございます。

(2023/10/22田島昭泉聞き書きメモより)